017
002→016→ここ
名前から有用なデータが送られてきたので、次に顔を合わせたとき、ニコは名前の頭にぽんと手を置いた。ほんの一瞬──というよりは、少し長く。なにせ、実に有用であったので。
元より使える部下であるし、そもそも報酬を求める気は無かったようだが、行動には報酬を。せっかくオペラント行動を強化したんだ、ここで嫌子を与えるのも勿体無い。
「頭を撫でられた」名前は、顔を赤くしつつ、小走りで仕事に戻って行った。
「へーえ、ニコさんもそんなことするんだ」
そこに居合わせたのは、シェンである。
含みのある笑顔を浮かべる彼に、ニコは眉を寄せた。
「下世話な顔をやめろ、お前の思っているようなモンじゃない」
「知ってますよ、あの子との関係ぐらい。アンディと風子ほどじゃないですけど、歳もずいぶん離れてるし。
飼い主と飼い……犬? 猫? って感じでしょうか。
まあ、見てるとなんかもどかしくなっちゃうんですけどね!」
だから、違うと言ってんだろ。ニコは内心で毒づいた。
シェンの言いたいことはわかっている。彼は部下のムイという少女をとても大切に扱っており、同じくムイも、シェンをよく慕っているのだ。そういう関係性を持つシェンから見ると、ニコと、ニコに一方的に懐いているばかりの名前は、見慣れないものを見るような感覚を覚えるのだろう。お前たちと違うものは違うというのに。
しかし、シェンは笑いながら、
「でも、良かったんですか? 本当にちょっとだけで」
「いつもよりは長い」
「そうじゃないんですけど、いや、そういうことかも?」
「何が言いたい」
決定的な言葉を避けて遊ぶシェンを、ニコは睨む。シェンはそれを宥めるように両手を翳しながらも、笑みは崩さない。
「ほんの少しでも求めたら、もっと欲しくなっちゃわないかな、ってことですよ」
あくまでボクの話ですけどね。
シェンは、最後にそう付け加えた。
球体の上、ニコはユニオン内を移動する。目指すのは、名前がPCを弄っているであろう部屋だった。
ノックは一度。厳重なロックを外し、中に入る。資料と研究道具に囲まれ、デスクの前に座っていた名前が振り向く。
「Dr.ニコ!」
飴玉の声、特別な笑顔。それらと共に、名前が席を立った。ばっとお辞儀をし、律儀に挨拶を述べ、また座る。よく見慣れた光景だ。
それなのに。
ニコの右手に、ぞわりと感触が這い上がった。己のそれを見下ろすが、視覚的な変化は何も無い。いつもの手だ。
「……Dr.ニコ? 何のご用で、Dr.ニコ!?」
ニコが扉の前から動かない様子だと、名前は不思議に思ったらしい。また振り向いた名前のその目に、額にコードを繋いだニコの姿が映った。ニコは、感覚の正体が判別できるデータを漁っていた。しかし、該当しそうな病気もUMAも見当たらなかった。
何かあったのかと焦った様子で、名前が駆け寄ってくる。と、また、右手が身震いするような。
「ど、Dr.ニコ、あの、いったい……」
ニコの正面に来た名前が、宙に浮く彼を見上げる。
あまりに普段と違うニコに混乱したのか、名前が聞いたこともない弱い声を上げる。──右手が。
「…………………………クソ」
「ど、どくたー、にこ、私、何か……」
「ンな声出すんじゃねえ!」
「す、すみません! あっ、あのデータ、おかしかったですか!? すみません! 修正します!」
名前は大慌てだった。人生で初めてと言っていいほどに焦っていた。身体は強張り、震え、明晰なはずの頭の中はぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた。
前の組織では、ミスをすれば酷い目に遭ったが、逆に言えばそれだけだった。今は違う。前の組織は最悪だったが、そこで培ってきたもののおかげもあって、慕うニコの前で失態を犯したことはなかった。でも、とうとう、自分は、何かしてしまったのかもしれない。罰は怖くない。ニコになら、殺されたって良い。
けれど、ニコに失望されるのは、恐ろしい。
──とか、考えてんだろうな。
ニコは泣きそうですらある名前を見て、その考えを推測していた。勿論、実に正確であり、名前は実際にそう考えていた。
だが、その事実こそが、ニコの状況を更に悪くした。
シェンの言葉を思い出して、あの胡散臭い笑顔をどうにかしてしまいたくなる。
「……名前」
「は、はいっ」
長かった無言の時間を終わらせ、名前を呼ぶ。なんらかの罰を覚悟した、けれど怯え──ニコに捨てられたくないという願い──の混じる瞳には、薄く水の膜が張っていた。
ああ、本当に、手だけが落ち着かない。
──手だけが?
──ああ、手だけが、だ。
それ以外は、認めない。否定してやる。
「頭を出せ」
「ぅ、はいっ」
名前が会釈でもするような角度で、ニコに頭を差し出す。
そこに、右手を乗せた。
撫ぜる。
一瞬でも、数秒でもなく。
手を、何度も、往復させる。
「……Dr.ニコ。こ、これは、どういう……?」
困惑する声。しかし、この行為は悪いものではないと知っている──そう覚えさせられている──からか、強張っていた身体からは力が抜けていた。
ニコが、ゆっくり口を開く。
「…………いつものがメシなら、これはオヤツだ」
「……おやつ……?」
困惑に困惑が重なった。ニコもニコで、あまりにも馬鹿馬鹿しいことを言っている自分に、頭痛がするようだった。
「良いから受け取っとけ。それとも拒むのか?」
「い、いえ! そんなまさか! ありがたく、謹んでっ」
それでも、言い訳が下手だったとしても、押し通すしかなかった。そうできるだけの躾は行き届いていた。名前は頭を撫でられ続けたままの状態で、ニコに応じた。
その後頭部を見ながら、名前の頭の角度では己が見えないのを良いことに、ニコはもう一方の手で額を抑える。
──まさか、ペットを飼うことになるとは思ってもいなかった。
これからどのくらいの頻度でオヤツをあげてしまうのかも、とんと見当がつかない。
……それと、本来の用事を忘れさせられていた。これがペットに仕事を邪魔されるやつか。