26
「俺の孫をよろしくな」
ぴしゃりと閉められた戸。取り残された私は、隣に立つ彼──光忠に、何と言ったら良いのか分からなかった。
事の発端は、鶴丸さんに相談をした次の日に起きた。
本丸全体休業。定期的に行うその日に、鶴丸さんが私の光忠の居る執務室の前までやって来たのだ。
「なあ、少し開けて貰っても良いか?」
「ちょっと待って」
急いで今まで座っていた場所から立ち上がる。戸の方へ歩み寄った光忠に目配せをした。受け取ってくれた彼の手で、障子戸が開かれる。
姿を現した鶴丸さんは、ふむ、と私を見た。
「きみたち、今何をしていたんだ?」
「えっ、えっと」
「名前を抱き締めてた」
「うあっ」
赤裸々に話されてしまった。折角ちょっと待ってだとか言って光忠の上から降りたのに。恥ずかしい。頭を抱えて横に転げる。どうしてそう平然と口に出せるのか。鶴丸さんが「抱き締めてた」と復唱したのがより居た堪れない。
「それだけか?」
「今は」
……今はって! どういうこと! 光忠! よ、予想はつくけど、きっとちゅーするつもりだったってことなんだと思うけど……。
呻いていると、光忠の「鶴丸君?」という固めの声が聞こえて、すぐさま顔を上げた。眉を顰めていた鶴丸さんは私を見た後光忠に視線を戻す。彼の肩にぽん、と手を置いた。
「今回、俺には力不足だった。きみで無いと駄目なんだろう」
「……何のこと?」
怪訝そうな光忠。
鶴丸さんは、
「きみの愛情表現が足りないようだ」
「────え?」
何を言っているんだ?
絶句。そういう言葉がよく似合う、なんて自分の状況をやたら冷静に捉えながら、聞き返す光忠を見て、なんだこれ、どうしよう、と別の自分が考えだす。
鶴丸さんがこっちを向いた。
「悪いな、今回はこれが正解だろう」
「せいかい?」
同じ言葉を繰り返しても、まともに頭に入ってこない。どういう意味なんだ。
呆然としている間に、鶴丸さんはひらりと背を向ける。
──そして、「俺の孫をよろしくな」に続くわけだ。
沈黙が訪れている執務室内。
「……しまった、うかうかしすぎた」
静寂を破ったのは、片手で顔を覆った光忠だった。
悔やむような言葉に、私の心臓が嫌な音を立てる。光忠の意図も、鶴丸さんの意図も、どちらも掴めない。
光忠は私の方へ歩いてくると、目を合わせるように屈み込んだ。
「何か、不安になるようなことがあった?」
「──え」
「僕が君を好きじゃなくなるんじゃないかなとか、そう思ってしまうようなこと」
「……それは」
あった。鶴丸さんに話したばかりだ。
……やや合点が行く。鶴丸さんの言っていた「正解」はあの悩みに関してのもので、それは光忠と面と向かって話すことで解決するんだと思ったってことか。そういえば鶴丸さんが怒りだしたのも、光忠と話す気はないと告げたあたりからだった。
真っ直ぐに私を見つめる目が逸らされることはない。
きっと逃げ場は無かった。
こういうときはどうしようもないのだと知っている。些かヤケになると、言葉はするする口をついて出てきた。鶴丸さんに伝えたのと同じ話をする。
「……成る程」
光忠は、僅かに眉を下げて笑った。
「君は、かなしいね」
かなしい、とは。私は何も悲しいと思ってなんかいないのに、光忠は頓珍漢な形容詞を使った。しかも、言葉に反した異様に柔らかな声で。
「僕の心が離れても、縋り付きたくても、縛り付けない。君は僕の意思を大事にしようと思ってくれる」
「……、……光忠に限った話じゃないよ」
「ああ、知ってる」
涙の膜が張り始めた目でも、光忠の頷くのが分かる。想像したくない未来を告げられるのは、勝手ながらちょっと堪えた。
光忠の手の平が私の頬を滑る。親指が目元に添えられた。彼の指が私の髪を梳いていく。
「僕、考えたことがあるよ。
初めて会ったのが僕じゃなかったら。そう、それこそ、他の燭台切光忠だったら」
──なんだ、私だけじゃなかったんだ。
彼の仮定にそんな安心が降ってきて、私はふっと息を吐いた。自分と同じ考えをしているひとがいるのって、単純だけど落ち着いてしまう。それが光忠なら尚更。
「でも、今ここに居る僕、君が『光忠』と呼ぶ燭台切光忠は、どうしようもなく君が好き。今ここに居る主、僕が『名前』と呼ぶ女の子は、僕を好いてくれている。
それは揺らがない。確かなことだ」
「……うん」
私が言ったのと同じこと。今の光忠は私を好いてくれているから、それで良い。
頷くと、光忠は柔らかく笑った。
「そして僕には、これからもそうだという確信がある」
確信。その単語が、胸にすとんと落ちてくる。
蜂蜜色の瞳は凛として在って、私をしっかり見つめていた。
──凄いなあ、と思う。少女漫画か、なんてかつては言ったけど、光忠の言葉は今まで出会ってきたどんな書物の中のそれより、ずっと綺麗に収まってくれる。
これがもし、例えば、そう、約束だとかいう言葉を使われたら、恐らく私は苦しくなっていた。縛り付けるようだと思っていた。その感覚に反して私自身が縛り付けられているような痛みを、心臓のあたりに感じていたはずだ。
光忠と居ると、気が楽になる。
耳の下辺りに添えられていた彼の手に、そっと手を添えた。私に触れるときには晒される手袋の下の素肌。光忠はそうやっていとも容易く私に触れてくれるけれど、私がこうやって自ら光忠に触れるときは、どきどきして呼吸が苦しくなる。
私のその手に一瞬視線をやった光忠は、熱を持った頬を撫でてゆるやかに目を細めた。
「……とはいえ、やっぱり調子に乗りすぎたな」
「調子に?」
「乗った。うーん、照れる名前が可愛かったからつい足を止めすぎた」
「はい!?」
可愛い、という言葉を私に使われるのがいつものごとく解せない。
眼帯をしているからって、視力が悪いわけでもあるまいに。でも光忠って自分で自分を「趣味が悪い」って言ってたもんなあ……。……素敵な人の方がずっと可愛いはずなのに、光忠はそうじゃないのかな。
そんなことをうんうん考えていると、光忠のもう片方の手が伸びてくる。
「というわけで、先に進もうか」
──世界が回転した。
違う、私の体がどうにかなった。
状況が把握出来ない。辛うじて判る分の情報を拾う。腹に重さを感じる。背中が固いものに当たっている。後頭部に彼の手が回っている。視界に天井と光忠がいっぱいになっている。
「押し倒しちゃった」
軽い口調で告げられた。それでようやく理解する。
押し倒されている。
先程の台詞と照合する。「先に進もう」と彼は言った。
……つまり?
「────!?」
声も出ない。
あの、その、私だって、そういう知識はいくらかあるわけで、少女漫画に出てくる程度の知識なら持っているわけで……、だから!
……「そういうこと」をするんだって、考えて良いんだろうか。
でも段階的に飛ばしすぎではないだろうか、光忠と私、ええと、し、舌を……入れる……ちゅーとか……したことない……。
「名前」
頬を撫でられる。光忠の目をまともに見られなくなりそうで、でも、今は見るべき時な気がした。心のあたりに確固たる意志を固めて、無理のない早さで目を合わせる。
まあるいべっこう飴みたいなそれがどろどろに溶けていた。熱をもって、甘くて、絡め取ってしまうような粘度。
ごくりと唾を飲む。
夜空みたいな色をした睫毛が、飴玉をそっと隠した。
寄せられる唇。
ちゅ、と頬に柔らかい感触とリップノイズ。
瞼をきつく閉じる。
額に唇が押し当てられる。
息が止まる。
「……かわいい」
熱に浮かされた声。光忠は髪を撫でて、「深呼吸、ね」と言うけれど、なかなかその通りには上手くいかない。ひくひくと喉が詰まるだけ。私のそんな情けない動作にさえも、ふふ、と光忠は面白そうに笑う。
雨が降ってくる。
優しい熱が、鼻先、目元、頬、額、耳、口端、あちこちに降りてきた。何度それを繰り返されただろう。いつの間にか私の頭を固定するみたいになっていた光忠の手が、頬に触れている。私の肌よりもずっと温度が低い。それなのに、どうしてか、あたたかいと思う。
手の平だけじゃない。触れてくる唇だって。
「名前」
「ぅ、あ」
「好き」
耳元で話されると、背中のあたりがぞわっとする。それが蕩けたあまい声なら、なおさら。
顔じゅういっぱい口付けられて、だけどそれだけ。心臓はばくばく煩くて、光忠の声を拾う以外のことができない。自分の喉が震えるのは分かるものの、どう呻いているのか自分でもわからない。ただ、私の声帯が震えるたびに光忠は笑いを零す。あつい吐息に混じらせて。
恥ずかしくて、どきどきして、でも嬉しくて、ごちゃまぜになって、いつしかぼろぼろ零れていた涙を光忠の唇が拭っていく。
これはどのくらい続くのだろう。
このままじゃ私の心臓は破裂してしまうんじゃないだろうか。
頭が回らないくせに、もうひとりの私が客観視してせせら笑う。
「名前」
名前を呼ばれるのも何度目か。少しトーンの変わったその声は、多分私にこちらを見ろと言っていた。
涙を零しきった目を開く。霞んだ視界が徐々にクリアになっていく。
あのあめだまみたいな瞳は、より熱で溶けたようないろをしていた。
彼の親指が私の唇に触れる。そこは、まだ雨粒が落ちてはきていない場所だ。
ひゅ、と短く呼吸する。
息を吸ったのと同時に、唇を塞がれた。
何かが滑り込んでくる。
「んっ、ん……!?」
したことのないやり方だ。
光忠の、舌、が口内を這っている。ぬるぬる生き物みたいに蠢いて、そのくせ、愛でるみたいに粘膜や歯を撫でられる。
喉が震える。
混乱して喚き散らすのとおんなじだ。ただ違うのは、口を塞がれ舌を絡め取られて、音のある呼吸に成り下がっているぐらい。それだけ。でも恐ろしい違いになる。だって、これ、あえぎ、っていうやつになってしまっている、きっと。
「はっ、ん、ぅ……っ、ん」
「……ふ、ちゅ……、んー……」
「んっ、んぅ、ふ、ぁ」
変な力が背筋に入る。強張った背中が浮く。宥めるみたいに髪を撫でられた。
いつ息を吸ったら良いんだろう。そもそもどうしたら気管の動きを制御できるんだろう。私の舌はどうしたら良いんだろう。生存本能のまま酸素を吸い込む。分からないままされるがままになっている。
「なにもかんがえなくていいよ」
口付けの合間、そんな言葉が耳に届いた。
あたまがまっしろになる。
再度口を塞がれた。
体に力が入らない。
光忠の舌が歯列をなぞる。上顎をくすぐられると、ぞわぞわしてもどかしい。これが、きもちいい、ってやつなんだろうか。
「ん、みつ、……ふ、あ……、は……」
「……ふふ、声、甘くなった」
嬉しそうな声に、安心する。
相変わらずのされるがままでも、光忠は何度も口付けながら私の頬を撫でていてくれる。
上顎をなぞられると肩を引きそうになってしまうのに、光忠はやたらとそこを擦ってくる。それがあまりにも優しい触れ方で、頭を撫でてもらっているときと同じような感触だった。
「……名前」
「んん、ん……」
名前を呼ばれた途端、口内に溜まった唾液を反射的に嚥下する。彼の体内にあったものが私の中に落ちていく。背筋にびりびりと電流じみた刺激が走った。なぜ、だろう。
「……ん、なにかやらしいこと考えた?」
「? はあっ、う、……?」
「あ、かわいい」
唇を離された時に言われたことの、意味がつかめない。いやらしいこと? 考えたっけ。回らない頭で首を傾げても、今日何回目かの形容が降ってくるだけだった。
呼吸を整える間、髪と頬に触れている彼の手の動きに集中する。
やっぱり、あたたかい。
「さて、今日はこのくらいかな」
そうしているうち、光忠は満足そうに笑った。
「こういうのは些か動物的かもしれないけれど、方向性を変えるのも大事だよね」
彼の結論が来るまで待つ。
「僕の愛、少しは伝わった?」
ぽかんとした。
頭からすっ飛んでいたけれど、そういえばそういう話だった。
思わず瞬きしながら考える。愛が伝わったか? そんなの、もう。手の、唇の、舌先の、あの愛でるような触れ方、あたたかさを思い出す。
質問にはイエスかノーかと相場が決まっている。でも、愛されているというのなら我儘で変えたって許してくれるだろう。
「だいすき」
ずっとすぐ近くに居てくれた、彼にぎゅうっと抱きついた。
「……、あー、うん、僕も大好き……」
思いの外へにゃへにゃになった声に驚いて間も無く、抱き締め返してもらえた。それが嬉しくて、思わず笑う。彼の声色の理由は悪いものじゃなさそうだったから置いておいた。
それよりも、このあたたかさに身を委ねて甘えることの方が優先事項だと思ってしまったので。