直江の治水事業は、民の暮らしを豊かにした。きっとこれは、後世にも伝えられるような立派な業績であるだろう。
しかし当人はといえば、
「直江。最後に寝たの、いつ?」
「昨晩だ」
「嘘つけ。嘘でなくてもほとんど寝付いてはいないだろ」
部屋に入ってすぐの場所から見ても、机の前に座る直江がやつれているのは一目瞭然だった。そのひどい顔に、口元が下に引きつりそうになる。屋敷に乗り込んで良かったかもしれない。
突然訪れた直江の部屋は書が山積みにされていて、彼に歩み寄るのも難しかった。その塔を倒さぬように足の踏み場を探しながら、彼の元へ行く。直江もいくらか書を避けて私の座るところを作ってくれた。直江のすぐ隣のそこへ、私も躊躇わず座ってしまう。
今度はこのだいぶ近いところから、直江の顔を見た。遠目のときよりも、げっそりしているのが分かる。
ほんとうにひどいな。目の下には隈ができているし、髪はべたべた、頬からは肉が削げて、肌のつやも悪い。
「あのな、仕事するのは良いけど、寝ないと体調崩すんだぞ。私なんか、あんまり寝ないと頭が痛くなる」
「だが、今の私にできることは」
「ばーか、それで身体壊したらもっと仕事できなくなるだろーが」
頭を軽くどついてやる。
友の死からこっち、直江はこんな調子だ。景勝様の叱咤があればしばらく持ち直すけれど、あの煩さはどこかに行って、すっかり静かな男になってしまった。
自責の念も、薄れることはないらしい。
そんな直江には、今の自分に残った唯一にでも見えているのか、民の生活を豊かにしようと統治に力を入れている。
力を、入れすぎている。
その働きぶりは、自分を虐げようとしているかのようだ。
いや、事実、そうなのだと思う。
直江は何かの書類を持ったまま、すっかり思い詰めている様子で、確かにそうだ、いざ眠ろう、などと言う気配はない。目を伏せ、唇を引き結び、何かを考えているだけだ。その顔は、すっと横に背けられる。……そういう仕草に胸をときめかせたのは、いつだったっけ。
今とはあまり似つかないあの生き生きした表情が頭に浮かぶ。慌てて跳ね除けた。そんな場合ではない。
今日、直江の屋敷に来る前に、景勝様から言われたのだ。「兼続を頼む」と。訪れること自体は決めていたから、私も頷いた。
どうして私に任せるのだろう、と思ったけれど。
景勝様が言い含めた方が、直江は聞き入れるはずなのに。
私が言うよりも、ずっと、ずっと。
「……名前」
「今やってんの、すぐ終わらせる必要のあるやつじゃないだろ。じゃあ寝て良いよ」
仕事を再開しようとしていた直江の袖を掴んで制止する。その手は汗でぬるぬる湿っていて、彼の袖を汚してしまいそうだった。しかし離すわけにはいかない。
──どうやったら、どう言ったら、眠ってもらえるだろう。
早く元に戻れなんて思わない。でも、直江に身体を壊されてはたまらない。
直江には、友を失うことが自身の死も同然だったのなら、私だって、直江の死は私の死なのだ。私には、彼が友を想う気持ちに肩を並べられる、といういやな自負がある。
直江にとって、私の死にそれほどの重さが無いとしても。
「……すまない」
直江は項垂れる。その手が書類を離すことはない。
謝るぐらいなら、身体を休めてほしい。私の言葉が一番いいけど、私の言葉じゃなくても良いから、誰かの「休め」を聞き入れて、休んでほしい。
……そう思うのも、今の直江の心には、負担だろうか。
ぎゅっ、と彼の袖を握る手に力が入る。直江の素肌に指の背が触れた。……冷たい。
その冷えが、私の背筋に伝染する。悪寒がぞくぞく走り抜けた。
──冷たい身体なんて、冗談じゃない。
「名前……?」
戸惑った声が、耳をつく。手汗は袖に含ませて、幾分かマシになった手の平で筆を握る彼のを覆った。当たり前みたいに、全体が冷えている。指先がじんとした。
私の体温を、分け与えられますように。
ううん、私の熱なんて、ほんとうは、全部あげたって良い。
長年一緒に居たけれど、ほとんど触ったことのなかった直江の手は、大きかった。私の片手じゃ面積が足りなさすぎる。両手を使って、彼の右手を包み込むようにしたり、さすったりを繰り返した。
距離的に、触れられるのはこちらだけ。ちゃんとあたたまったら、左手もやろう。
「…………」
直江は黙って、その様子を見ている。垂れた前髪に隠されて、どんな目でいるのかは分からない。悲しんでいなければ良いな、と思った。
「……名前、私は」
「うん」
直江は口を開く。弱々しく震えた声だった。
「……恐ろしいのだ」
静かな水面に、一滴、雫が落ちる。
「あの日の……、みつ、三成が、死んだ、日のことを。一度、夢で見た。……それから、眠るのが恐ろしい……」
「うん……」
「だから眠らぬよう、努めても、日によって、眠ってしまう。すると、やはり、夢を見る」
空いている左手で、直江は顔を覆った。その肩が跳ねるように震える。……泣いていた。
直江が笑うと私も笑ってしまいそうだったのに、直江が泣いていると、私も泣いてしまいそうになる。唇を噛み締めると鼻の奥がつんとして、喉がひりひり痛んだ。泣いたことなんて、もうずっとないのに。
それでも偶然泣いてしまったらどうしようもない。血の味がするまで待ってから、口を開いた。
「……なあ、直江。じゃあ、お前が寝てる間、私がついてるから。魘されてたら、すぐ起こす。任せとけ」
「そのような」
「良いんだよ。眠れなくても、目ぇ閉じてるだけで良いから」
先ほどよりは幾分か温まった直江の右手を、片手で握り込む。もう片方で直江の背をとんとんと叩いた。
「どうせなら日当たりの良いとこにしよう、今日は晴れてるから、きっと寝心地も良いぞ」
「外に出るのは……」
「暗いところにいるよりか、明るいところで横になった方が良い。部屋から出たくないんなら、障子を開けて陽を入れれば十分だ。どうせ人避けしてるんだろ」
──「このような寂しい場所に蹲っているだけでは、よくなるものもならないぞ」
そう言ったのは、直江。かつてのお前のはずだ。
もう一度、ぎゅうっと直江の手を握ってから離し、素早く障子を開けて戻る。
丸まった背中をぽんぽんと撫で、肩に触れて横に倒そうとしたところで、肝心なところに思い至った。
寝具が無い。
しかしこれを口にしたら、準備させる手間がどうのとかで、直江に眠ることを拒否する理由を作ってしまうだろう。ちゃんとしたところで眠ってほしいのが本音だけれど、……仕方ない。
「直江、私の膝使え。あー、嫌じゃなかったらだけど」
「膝?」
「枕だよ、枕」
「……」
直江が顔を上げる。涙の跡の残った目は、呆然と私を見ていた。
「そんな……、迷惑だろう」
「良いんだよ。……私が好きでやるんだから」
……「私はお前の友なんだから」なんて言えたら、どんなに良かったか。私は、直江の友にはなれない。そんな大事なものには届かない。
室、という言葉に疼いてしまった直江への想いだって、墓まで持っていくものだ。
その代わりに使った言葉で、直江には納得してもらいたい。
「私の足でも、多分、丸太よりは首も痛めないと思う。その辺りはお得だぞ」
自分の膝を叩いてみせる。直江は逡巡して、やがて身体を横に倒した。その頭を膝に誘導してみると、抵抗無く乗せられる。
ただ、なんだか軽い。
「……もうちょい体重かけて良いよ」
「だが、痺れてしまう」
「旅で鍛えた脚を舐めるなって。なんなら今度直江にもやって貰うから」
冗談だけど。いくら墓に持っていく感情だとはいえ、並ならぬものがあることには違いない。正直こうするのも照れくさいのに、自分がやってもらう側になるというのは、もっと困る。
そんなことは隠しつつ、まだ温めていない左手を包んでやる。涙を拭っていたからか、右手よりは温かかった。
膝に、ぐっ、と重みがのしかかる。しっかり頭を預ける気になってもらえたようだった。
「……名前」
「うん」
「ありがとう……」
「うん、……どういたしまして、な」
──ああ、その言葉が聞けただけで、私はもうなんでも良い気がしてしまう。この万能感は、いけない。
直江の手をさすることに集中して、不要な意識を遠ざける。その手があたたまった頃、膝の重量が倍増した。直江の顔を窺うと、目は完全に閉じられている。呼吸もゆっくりとしているし、どうやら眠ってくれたらしい。
手は握ったまま、脂だらけでお世辞にも綺麗とは言えない前髪に触れてみる。毛束がまとまってしまったのをほぐすように弄っているうち、その頭を撫でていた。
……こんなになるまで、お前は、頑張ったんだな。
そう思うと、苦しいような、かなしいような、色んなものが混ぜこぜになる。
直江のことをこんな風にした彼の友が憎かった。でも、同じくらいに羨ましかった。
私が死んでも、直江は、ここまで悲しんでくれるだろうか、と。
私は上杉に戻ってから、ひとり決めたことがあった。「私だけでも、直江の後に死んでやる」
多かれ少なかれ直江は悲しんでくれると分かってはいるから。少しでも悲しませたくないから。
それなのに、穢い欲と戯言は、すぐに顔を出してくる。
「……ばかやろう」
だいすきだよって、胸を張って言える私なら良かった。
友のことが夢に出てこないと良い、という私の気持ちは、いつまで経っても純粋になれない。
title by afaik 170527