12
落ち着かない。
「緑茶で良いか?」
「う、うん」
声をかけられた瞬間、肩がびくりと跳ねた。直江はあからさまに動揺した私を笑いつつ、ペットボトルのお茶をコップに注いでくれる。居心地の悪さに身を縮こまらせて、そっと周囲を見回した。
昔は何度も直江の屋敷を訪れていたから、今生で家に行くのもそんなに変わらないと考えていた。でも、違ったらしい。来てみると、全然そんな風に思えない。
私の家よりも広いマンションの一室。床に散らばった書類と日用品、寄せてまとめられたカーテン、ハンガーに掛けられた衣服、──生活感が溢れているだけの他人の部屋。これのどこに、戦場並みの緊張を感じる要素があるのだろう。
無意識に警戒しているのか、部屋を歩き回る直江が常に視界に入る。茶菓子をテーブルに置いた彼が隣に座ると分かった瞬間、息を呑んでしまった。
「挙動不審だな」
「い、いや……、なんか……」
見たままを言われて、言葉に詰まる。私もどうしてこんなになっているのか分からない。直江が隣に座った瞬間、周囲の温度が上がった気だってした。
というか、近い。ともすれば肩が触れそうなくらいのところに、直江が座っている。なんでこんなに近くに、……いや、この程度の距離は、前に何度も何度も何年分も経験しているはずだ。それが、なんで、今、気になるんだ。
「意識されているようで何よりだ」
「……、あ、そういう!?」
「なんだ、無自覚だったか」
隣の直江の言葉に、ぱん、と手を打った。なるほど。そういう。意識しているから。
なるほど……。
「おお、また真っ赤だ」
「ぐ、うう……」
面白そうに顔を覗き込んでくる直江から顔を背ける。わざわざ言わなくても良いのに。
直江を意識してしまっている、それが分かると途端に気恥ずかしくなった。
彼に恋をしていたのは昔もだったはずなのに、今になってこうも初心な反応をしてしまうのは、理不尽さのようなものを感じる。
でも、人の感情というものが複雑怪奇なのは、直江との交流で知っていた。向けられた感情は、受け取る姿勢の出来ているのと出来ていないのとで、感じようが大きく変化するのだ。
……納得したからと言って、恥ずかしいのがどうにかなるわけでもない!
とにかく気を紛らわせようと茶菓子に手を伸ばす。阻まれた。手首を掴まれている。
「な、なに」
直江の方はちらりとも見ずに問う。手首を触られているというのは、まずい。非常にまずい。そこは脈動を感じやすい部位だ。滅茶苦茶心音が速いのがばれる。
「……ふむ」
得心したような声。嫌な予感がして、とうとう直江の表情を窺った。したり顔である。何かをする気なのは明白だ。身構えると、直江がにんまりと笑む。彼は身体ごとこちらに向いた。
ぐい、と引かれる。
「うわ、え、わ」
「ようし」
あっけなく、彼の力に敗北した。直江の腕の中に飛び込んでしまったみたいな状態に、身が強張る。
恐る恐る、視線を上向けた。すぐ傍に、直江の顔。ごくりと喉が鳴った。得意げかつ嬉しそうな笑顔に、どうするべきだろうか。耳に響く心臓の音が、思考を妨げる。
そうしている間にも、直江は私をもぞもぞと抱き直した。良いポジションを探しているらしい。彼に触れる場所だとか、息のかかり方だとか、そういうのがあちこち変わる。落ち着かない。
彼の満足する具合になった頃に、私はようやく言葉を発することが出来た。
「とつぜん、なに」
「ははは」
機嫌の良さそうな笑い声が、ほぼ直で耳に届く。それは普段よりも穏やかな音をしていた。いつものようにけたたましく声を上げてくれたなら、煩いと言ってやれたのに。そのうえ今の私には、直江の笑い方が違うだけでも、胸をざわざわさせる要因になった。
居た堪れなくなって身動ぎする。とりあえず私も自分の収まりの良い位置を探そうという気になって、体勢を立て直した。と言っても、誰かに抱き締められたことなど早々無いので、どうするのが王道かも分からないが。分からないなりに、なんとなくで。
そんな私を見ながら、直江が言う。
「存外乗り気だな」
「……うるさい」
からかうなら逃げてやろうか。
でも仕方ないから今ぐらいは引いてやる、ぐらいの気持ちで、直江の身体に寄りかかった。抱き締めてくる腕の力が強くなる。見ずとも、彼の楽しそうにしているのが分かった。
喜怒哀楽の激しいやつ。さっきは私が目を逸らしたぐらいで、あんなに絶望していたのに。それについては私も悪いと思っているけれど、私の反応ひとつで、そう一喜一憂するものだろうか。
そうしてあれこれ考えていると、彼が口を開いた。
「……うむ。もっと早く愛を告げていても良かったやも知れぬな」
「……早くって?」
「前の時だな。豊臣の天下であった頃あたりに」
思いもよらぬ答えが返って来て、直江を見る。間近にある彼の顔を直視するのは恥ずかしかったものの、目は逸らさなかった。
「自慢じゃないけどさ。私、もしその頃に言われてたら、勝手に思い悩んでまた逃げてた気がする」
「そこを逃がさぬように、手をまわ……、外堀を、……とにかくなんとかしておいてだな」
「……」
なにやらものすごく聞き捨てならない言葉を言おうとしていた気がする。だけれど、そのくらいじゃないと私の逃げ道は塞げないだろうから、正解かもしれない。なにせ逃亡は私のいちばんの特技だ。
ぐいぐいと直江の身体に体重をかけてやりながら、もう一度抱き締め返されるのを待つ。案の定、ぎゅうっと力が込められた。私の心臓もぎゅうっとなる。直江が「ううむ」と呻いた。
「やはりもっと早く告げるべきだった。そうすればお前を不安にさせることもなかったろうにな」
「……そんなに、そう思うか」
「思うとも」
頭の後ろに、直江の手が添えられる。その指先がさらりと優しく髪を梳いたものだから、肩が強張った。それにも構わず、彼は私の頭をゆるやかに撫でる。
触れられているところがびりびり痺れるようだった。こんな痺れは無知のもので、つい直江の服を引っ張ってしまう。助けを求める動作だった、とやったあとになって気付いた。
直江は手を動かしながらもぺらぺら喋る。
「お前は、自分でも言っていたが、すぐ不安になるのだろう。気にしていたらしい嫉妬の念も不安ゆえ。
ならばその不安を除くためお前への愛を示してやろうと思い、まず抱き締めてみたわけだ。
それが、随分効き目があるものだから」
「え」
「名前が怖がりなのも寂しがりなのも分かってはいたが、ここまでと気付いていなかったのが歯がゆいな。早くにこうしていればお前が悩むことも無かったはずだ」
「──」
むかっ、とした。図星だったからだ。
言われてみれば、明らかに、この状態はおかしい。
直江の身体に身を預けきったり服を握ったりなんて、昔の、いや、数時間前までの私では有り得ないことだ。直江がこれを少しでも予想して私を抱き締めたのなら、私の習性とでも呼べるものは、彼に見通されていたことになる。長年一緒に居たからと言われたらそれまでかもしれないが、こんな甘ったるい行為に弱いとまで察しをつけられていたというのは、受け入れるにも難しい。好きだとはいえ、彼に褒めがたい部分があるのは変わらないし、出会ってから今まで、濃淡はあれどつっかかるような態度で接し続けてきたのだから。つまり、建前ばっかりだった自分の自尊心を攻撃された気分なわけである。
だというのに彼から離れずこの温度を容認している理由といえば、やはり彼の言ったそのまま。早鐘を打つことをやめない胸の奥は、反面、妙な穏やかさに満ちている。安心、しているのだ。
それに。
「……嫉妬はしてたけど、私も一応分かってはいたよ。
その、直江が私のこと、大事に思ってくれてたのは」
私につらい思いをさせまいとする直江の純真な心こそが、彼に心を奪われた理由だったから。
隠すことなく伝えた言葉は、直江の睫毛をぱちぱちと弾かせた。逃げるような台詞しか吐いてこなかった私がらしくないことを言ったからか、私が分かっていたとは思わなかったからか、判断はつかない。
出来れば後者でないと嬉しいものの、もしも後者だったのならば、私もこれからはもっと素直になるべきだと、なろうと、今なら思える。
直江は瞬きの意味を知らせぬままに、笑顔を見せた。
「当然だ。名前は、私のいっとう大事な、私だけの宝物だからな」
「は──」
──「宝物」。
その、たったひとつの、シンプルな言葉が、ずしん、身体の中に沈んでいった。
「そう、か……。ちがったんだ……」
「名前?」
脳髄がちりちりする。直江の不思議そうな声に何を返す余裕もない。思考回路と直結した口が、声も無く小さく動いた。
そうか。優劣を考えるものじゃなかったんだ。あのふたりは「友」で、多くの人を愛する彼のつくった特別なカテゴリーの中に居て、彼のだいじなひとで、私はそれが羨ましくて、だけど私も、また別な、とくべつだったんだ。とくべつな、だいじなもの、だったんだ。
今更、ほんとうに今更、こんなことに気が付くなんて。
直江が私に向けているのは恋情であることを、私は今までちゃんとは理解していなかった。
「……お前、よもや泣いて」
「なおえ」
彼の言葉を遮って、太い首筋に頭を摺り寄せる。
さっき明言しなくて良かった。この言葉を真の意味で伝えられるのは、今だ。
頬を伝うものを晒してしまうのは惜しかったけれど、ついっと顔を上げて、彼と視線を絡ませた。熱で頭がぼうっとする。酒でも飲んだようだった。こもった息と一緒に、言葉を吐き出す。
「すきだ、直江のこと。だいすきだ。
私、直江とずっと一緒に居たい」
穢くてもなお、その居場所に恋い焦がれる。
美醜より好悪を優先する私は、世界から見れば狂人になるのだろうか。それでも良いと、今なら言える。世界と自分がどれだけ食い違っていようが、関係ないと。
直江が私を好きで、私が直江を好きなのなら、もう、それで、なんでもいいと。
伝えることは伝えた。達成感のような脱力感のようなものに誘われるまま、直江の身体にすべてを預ける。
頭に、直江の額がぐりぐりと押し付けられた。
彼は、ぽつり、
「……名前、入ったばかりのマンションを解約する気はあるのか」
……数秒かけて、その言葉の意味を理解する。
2年待て、と笑ってやった声は、かつてないくらいに震えていた。