19

 名前殿は、ほんとうに元気になった。驕りがすぎるかもしれないが、私の言葉で名前殿が元気づけられたのだとしたら、このうえなく嬉しいことだ。
 ……彼女が頭を抱えているというのに、ついそう思ってしまう。

「うう……、やっぱり専門外だ……」
「その、お疲れ様」
「うん……」

 はあ、と深い溜め息が聞こえる。座る膝に肘をついて上半身を丸めている名前殿は、普段より小さく見えた。しかし、そこにあの虚無はどこにもない。
 今日の名前殿は、設計図の完成に行き詰っているらしい。それで沈んでしまっていると。
 そうやって悩んでいても、あの日よりずっと良い。苦痛を隠すことなく、悩んでいるのだ、と表に出す名前殿は、暗い空気をさっぱり纏っていなかった。
 しかも、仕事に手間取っているからといって、彼女はこの工房に私を呼ぶのをやめることはない。むしろ、彼女曰く「息抜きになる」そうなのだ。
 だから、きっと、驕りではないのだろう。私は彼女のためになれている。

「間違ってるような気がするんだよ……、めちゃくちゃ怖い……」
「だが、間違っていても大丈夫なのだろう?」
「うん、そうなんだけど。機械なんて造っては問題点を洗い出して再設計していくものなんだから。でもやっぱり間違うのは嫌だ……」

 私は機械のことなど全く分からないが、あれらは複雑な構造をしていて、どこかが壊れたり欠けたりしてはいけないはずだ。だから、名前殿の悩みも仕方ないのかもしれない。だが、何度もやり直して完成させるのが正道なら、ここまで思いつめずとも良いのではないだろうか。
 そうは言っても、名前殿は首を振る。

「失敗するってこと自体が辛い……。自分の至らなさを直視したくない」
「誰であろうと間違いはあるものだと思うが」
「そうは言うけど」
「私だって間違う」

 名前殿が、顔を上げた。首をぐっと上向けて、私を見る。
 見つめられている。
 気付いて、心臓が跳ねあがった。私を見つめる名前殿の目を、私も見返す。こうして名前殿の目を見つめるのは初めてだ。暗色の瞳。長い睫毛。ぱちりぱちりと繰り返される瞬きさえ見逃すまいとしてしまう。
 どれだけそうしていただろう。しばらくして、名前殿はぽつりと呟いた。

「ああ」

 納得したような声色。それきり名前殿は目を伏せて、何度か頷いた。視線を逸らされてしまったのが少しだけ、そう、寂しくて、名残惜しさのまま先ほどまで名前殿の瞳があったあたりの空間を見つめる。視界には彼女の後頭部があって、つむじが見てとれた。かわいい。恋する相手のつむじとはこれほどかわいらしいのか。一体つむじの何がかわいらしいのかは分からないがとにかくかわいい。触ってみたい。
 思わず手を伸ばしかける。が、今度は視界からつむじが消えた。また丸い瞳が戻ってくる。危ない、目を突いてしまうところだった。(いやそもそも、不躾に触れてはいけないのだった)

「ありがとう、文鴦殿。どうも駄目だね。焦って頭がいっぱいになると、自分で決めたはずの大切なことまで忘れちゃう」
「名前殿の役に立てたなら良かった」
「うん、うん。……うん。私、もう……そうだったなあ……」

 名前殿は感慨深そうに呟いて、視線を落とす。
 わずかに核心を避けるような物言いは、意味を完全には取らせてはくれない。大切なこととは何なのか、何がそうだったのか、彼女は私に告げない。
 彼女はありがとうと、役に立てたとは言ってくれる。それでも、全てを知りたいと思ってしまうのだから強欲だ。彼女がそういうことを口にしないたちなのだとしても、私にだけは教えてほしい、だなど。
 私はまだ未熟なのだろう。それこそ名前殿に言ったように、私も間違うのだ。恋をすることは初めてで、まだこの傲慢を抑えるすべを身につけていない。

「それにしても、文鴦殿ってわりと謙虚に話すよね」
「……そうか?」
「そうだよ。それも文鴦殿のすごいところだと思う。私には難しいから」

 私の心中とまったく反対のことを、突然名前殿が話しだす。腑に落ちなかったのが表情に出てしまったのだろうか、名前殿は眉を下げ、口角を少しだけ持ち上げた。「謙虚な人は自分が謙虚だって言わないよ」
 確かに、そうかもしれないが。
 名前殿の苦笑が深くなる。彼女は肩を竦めて、あのね、と。

「文鴦殿が自分のことどう思ってても、私は勝手に尊敬しちゃってるんだ。
 文鴦殿に、ずっと憧れてた。話を聞くだけでも、すごい人だなってずっと思ってた。
 でも、実際に会って話してみて、もっとそう思うようになった。
 しかもさ、仕舞いには。私が悩んでたこと、それでも良いんだって思わせてくれて。私のこと、すごく楽にしてくれた。
 私、文鴦殿に導いてもらった気でいるよ。自分の道を掴み取れる文鴦殿に、私も背中を押してもらって、手を引いて貰ったんだって」

 ……心臓が、震えるような心地だった。
 声が出ない。言葉を発することを拒んでいる。
 彼女がくれるきらきらしたものを噛み締めて、ひとつも乱したくなかった。
 喉の奥、その輝きをゆっくり飲み込むように口を閉じている間にも、名前殿は話を続ける。「君が望むそれとは、定義が違うと思うんだけど──」と前置いて、そして。

「文鴦殿は、私の英雄なんだ」

 ──その言葉こそ。
 その言葉こそ。私だって名前殿に手を差し出されているのだと。私の進む道を肯定してもらえているのだと。あの日から変わらず、彼女は私の背に寄り添ってくれているのだと。そう思うのに十分だった。
 「英雄」という、私のなりたかったもの。それは戦場のであって、確かに名前殿の言う通り定義は違う。
 けれど、「名前殿の英雄」。私の憧れたものに、名前殿にとってのそれに、私はなれていると言う。
 嫉妬する必要など無かったのだ。足りないと思う理由は無かったのだ。私はとっくに、名前殿に強く想ってもらえていたのだ。
 やはり私は傲慢だ。持っているものを見ることはなく、ただ欲しい欲しいと子供のようにねだり続けた。
 けれど、もう、そんな駄々を捏ねることはないだろう。
 彼女の中に、既に私の存在はあったのだから。  

まばゆく照るもの

title by 金星 170402