20
「……君と居られる私は幸せ者だなあ」
「……そうか?」
「そうだよ」
唇の端を吊り上げた名前殿の、その表情を覚えている。
「私も名前殿と居るのは幸せだ」
本心を伝えたときに見開かれた目の、その色を覚えている。
「そう言ってもらえるの嬉しいわ照れるわで大変なんだよ、こっちは。文鴦殿と居ると幸せだって言ったけど、今わかった。私が思ってたより数倍幸せだ。すんごく幸せ」
思わず彼女の頭に手を伸ばしたら、彼女の頬が真っ赤になったのを覚えている。
あのときから私はどうしようもなく幸せで、これ以上はどうにかなってしまいそうだとさえ思ったのに。
「文鴦殿が好きなんだ」
彼女は、私をどうしたいのだろうか。
「……」
「……名前殿」
「うん?」
「あ、いや……」
言葉をくれた名前殿を抱き締めて、彼女が泣きながら、笑って。少し経つ。どくどくと煩く鳴る心臓の音が、彼女の声を掻き消してしまいそうだ。
何度も何度も抱き締めたいと悶えた小柄な身体は、思っていた以上に小さく柔らかい。こんな心地のするものを腕の中に納めたことなど無かった。
彼女の腕は私の背に回されている。ぎゅう、と私を抱き締め返してくれている。
抱き締めたい、と願ってきたが、今、私たちは、抱き締め合っている。ずっと望んでいた幸福と、それよりももっと甘く深い幸福までもが死角から与えられて、溺れそうになる。ぬくい湯に頭まで沈んでいくようだ。
息を継ぐように彼女の名前を呼んでしまったけれど、酸欠で頭が働かないのかそれ以外の言葉が出ない。ただ呼んだだけの、不自然な有様を晒してしまった。
それを、名前殿がくすくす笑う。
「困ったなあ」
「すまない」
「違う違う、その、なんだろう、……うん。好きだなあって」
「え」
突然の言葉。歓喜が急速に込み上げてくるのと同時に、戸惑いがじわりじわりと染み出してくる。困らせたのに、好き?
まったく訳がわからない。わからないが、この「わからなさ」こそが恋なのだとも思う。名前殿に出会うまで、私は特定の相手を抱き締めたくなるという欲求を知らなかったし、わからなかった。
腕の中を見下ろす。おかしそうに背を震わせる名前殿は身動ごうとして、されど出来なかった。
私の腕にがっちりと拘束されていたからだ。
「あっ、い、痛くはなかったか」
慌てて腕を離そうとして、出来ない。今の私にこの腕を離すことなど出来ない。結局、強くしすぎていた腕の力を緩める程度になった。
「ふ……」
「名前殿?」
名前殿が、また私の胸下に顔を押し付ける。
聞こえたのは、間違いなく笑い声だった。
「く、ふ、はは、かわ、いや、ごめ、ふふ……」
……どうして笑うのだろう。
彼女が笑うのは、楽しそうなのは、良いことだ。私は彼女にそういう顔をしてほしいと、ずっと思っていた。
先程だって、名前殿が笑ってくれて、嬉しかった。「文鴦殿と一緒に居るの、すごくしあわせだ」と、笑い声の合間に聞こえてきて、ああ、私は彼女と一緒に幸せになれるのだ、と思った。
ただ、不思議だ。私が彼女を笑わせることができているということなら、それで良いのだが。
為す術もなく見下ろしていれば、名前殿は何度か深呼吸した後、落ち着いた、と頷いた。
「もう、文鴦殿、めちゃくちゃ好き」
「それは、嬉しいが……。どうして先程から笑っているのだろうか」
「ふふ、ごめん、好きだからなんだよ」
名前殿はおかしそうに笑う。
……好きだから、か。
「それなら仕方ないな」
「うん、仕方ないと思って」
ね、おねがい、たのむよ、と。名前殿の額が私の胸に擦りつけられる。
……かわいい。かわいい。胸がきゅうっとする。この感覚は何なのだろう。ほんとうにわからないことだらけだ。
私も深く息を吸って吐き、心を落ち着けようと試みる。ようやく酸素が足りてきたのか、ふと懸念が浮かんできた。そうだ、これは今確かめておかなければいけないことだ。
名前殿、と呼びかけると、彼女は不思議そうに私を見上げた。目が合うと、きゅ、と緩んでいた彼女の表情が引き締まる。
その表情の変化にさえ愛しさを感じながら、口を開いた。
「私は裏切り者だ。私と居ると、悪く言われるかもしれない」
「……ああ、この前私に『誰かに何か言われたのか』って聞いたのはそのこと?」
「そうだ。女官たちが話しているのを聞くまで思い至らず、私は自分の浅慮を痛感した」
「女官? それうら……、まあいいや」
名前殿は口の端を片方横に引くも、すぐに元に戻した。代わりに思案するように視線を下げて、ふう、と息を吐く。
「でもさ、私、遠慮されて遠ざけられる方がずっといやだなあ」
「そんなことはしない、名前殿が私を選んでくれるのなら、私はあなたの傍に居たい」
「うん。……私も文鴦殿が許してくれるなら……、あー、駄目だ。私はそれ無理だな。
私は文鴦殿が何と言おうと離れるのは嫌だ」
名前殿から溢れたのは、私が自己嫌悪したはずの感情とよく似ていた。相手のことよりも、自分の欲を重んじて動いてしまう。
そのはずなのに、不思議といやだと思わない。
それどころか、求められているということに歓喜さえ覚えた。
つまり、そうか、そうだ。
理不尽な欲求もお互い好き合っていると噛み合うものだ、というのはこれだったのだ。
わからないことばかりの「恋」のなかで、次々とわからないことが生まれては、ひとつずつすこしずつを知り、気が付いていく。
それは見知らぬ葉をつけた新緑がやがて花を咲かせ、実を結んでいくのを思わせた。
……そんなふうに、ひととせを過ごすように、名前殿とこれからを笑い合って居られたら。
心に落ちてきた欲求は、元あった願いと重なって混ざり合い、やがて玉のように固まってそこに落ち着く。
離れたくない、と私を求めてくれた名前殿に応えるように、離しなどしない、と少しだけ腕の力を強めた。
「私は、名前殿と共に幸せになりたいのだ」