17

「……まだ?」

 約束の日。工房に行く私を引き留めたのは、名前殿の使用人だった。曰く、予定があるから起こすように言われたので起こしたがそれ以降の反応は無い、おそらくまた眠ってしまったのだ、と。
 普段の私なら、仕方ない、久々の仕事で疲れたのだ、などと思えただろう。しかし、そうはいかなかった。わるい想像が浮かんでは頭から離れない。
 なにせ、嫌な話を聞いてしまったのだ。

「……すまない。もう一度様子を見てもらっても良いだろうか」

 これが彼女でなければ、今日でなければ、起きるまで待つとか、また後日にしようとか、そういう選択をしていた気がする。
 しかし、やはりそうはいかなかった。
 私の中に渦巻いているのは、疑念と不安だ。
 「彼女は私に会いたくないのではないか」という。
 それでも、もし彼女が会いたくなくて部屋を開けないのなら、扉越しに。
 彼女に会ってもらえるのなら面と向かって、話をしたい。
 私の頼みに頷いてくれた使用人が、彼女の工房へ足を踏み入れる。扉の隙間から一瞬見えた工房は真っ暗で、ほんとうに眠っていたようだった。しかし陽射しのひとつも入ってこない部屋のように思えたが、そのようなところにずっと居て気が滅入りはしないだろうか。
 中からは、裏返った悲鳴とドタバタという音が聞こえてきた。名前殿が起きたらしい。
 ほどなくして、使用人は部屋に明かりをともしたうえで退室した。どうやら彼女は約束通り私と会ってくれるようだ。使用人に礼を言って、私は工房に足を踏み入れる。

「起こしてって、言ったはずじゃ」
「起こした、と言われたのだが」
「つまり私の二度寝か……」

 肩を落とした名前殿は、少しやつれているように見えた。工房の様子もなかなかに、凄惨、と言って良いのか。物が散らかって、足を付けて良い場所を見つけるのが難しかった。
 明かりは人工。ただ、見たこともない四角い箱が部屋を明るくしているのは、技師である彼女の技術だろうか。仕事道具と思われる物もたくさんある。
 私にはすべてが目新しい彼女の仕事部屋なのに、名前殿はまるで自分の部屋ではないかのように居心地が悪そうにしていた。
 その様子を見て、今更申し訳なくなる。

「すまない、後日にした方が良かっただろうか」
「ううん、約束したのに寝こけてたのは私だから、謝るのは私。ごめんね。
 でも、文鴦殿が居心地悪いなら」
「そんなことはない!」

 ……つい大きな声が出た。名前殿が目を丸くしている。その表情も可愛らしい、と感じてしまった。
 だが、そんなことを思って良いのだろうか。
 私は彼女を傷つけてしまったのかもしれないのに。

「むしろ、名前殿は、……嫌では、ないだろうか。私と居るのは」
「え、まさか。むしろ嬉しいよ」
「それなら良いのだが」
「うん」

 笑顔で返される。
 いつものように、笑っていない笑顔だった。
 いや、むしろ、前よりひどいように思える。笑っているのに、笑っていない。見たことのない表情なのに、見たことのある表情。
 戦のあとに、よく目にする、敗北した敵兵の──。
 ぞくり、と背筋に寒気が走った。久しく感じていなかった感情だ。
 ……私は、恐怖している。

「名前殿。会わない間、何も無かったか?」

 本題。を、些か遠まわしにしたものを口にした。直球で聞くのは躊躇われてしまったのだ。
 名前殿は笑みを変えない。その奥の壮絶な────虚無だけを、深くした。

「うん、なにも」

 ──そんな顔をして、何もなかったなんて、あるものか。
 私は、私が情けない。
 自分も仲良くなりたいとか。共に幸せになりたいとか。笑顔が見たいとか。
 そう思っていたくせに、まったくもって出来ていない。
 彼女を想っているはずなのに、自分の欲望に戸惑って狼狽えてばかりで、彼女に何もしてやれていない。
 だから、彼女は私を頼ってくれないのだ。
 ……ならば、今度こそ。彼女に手を差し伸べなければ。
 私が彼女と居ることは、彼女を傷つける要因になるかもしれないのだから、尚更。私はその傷の痛み以上に、彼女を守らなければならない。
 今更、知ったのだ。
 「文鴦様と仲良くするなんて、名前様は何を考えているのかしら」
 そんな、嫌な話をする人々が居ることを。
 私は、いつまで経っても罪人ではいられない。

「名前殿。では、どうして、──」

 彼女は本来、感情に素直なのだと思う。彼女ひとりになると、抱え込んでしまうだけなのだ。
 その証拠に、今の名前殿の姿がある。
 私の何も飾れない言葉などでも、彼女はすぐに泣きだしてしまった。
 名前殿はぼろぼろ泣いている。泣くだけだった。
 あのときのように、泣く自分と笑う自分を作り出していなかった。
 安堵する。
 噛み締められない歯が鳴るのを抑えたいのか、彼女は自らの口を塞ぐ。その手にそっと触れた。血の気の失せたような、冷たい手だった。気力と生気の失せたような彼女とあいまって、死を思わせてくる。……名前殿が死ぬ、だなんて。見過ごせるわけがない。
 彼女をここまで苦しませる原因はなんなのだろう。あの嫌な話のことかと思って尋ねてみても、首を振って否定される。しゃくりあげる喉で一生懸命に声を振り絞るのが痛々しくて、けれど私に心を許してくれたようで嬉しくて、かなしかった。
 結局私は、自分本位なのだ。
 もしも彼女に恋をしていない私なら、純粋に彼女を心配することだけが出来ただろうか。
 それとも、彼女に恋をしている私だから、彼女をこんなにも強く心配することが出来るのだろうか。
 私には分からない。
 私に分かることはすこしだけだ。
 ただ彼女がそういう人だから私の無粋な言葉でも泣いてくれるだけであること。私自身はあの時から変わらず、恋する相手が泣いているときにどうすれば良いのか知らないこと。
 それでも、彼女がこうして泣いてくれるのだから、きっと私の存在にも意味があるということ。
 私が思ったとおりの言葉を口にすれば彼女は泣いてくれる、人との会話は不得手でも、真摯に向き合えば伝わるものはあるのだということ。

「──それは、なに。失敗しても、失敗し続けても、自分は見放さない、って?」
「ああ。その通りだ。ずっと居る」

 彼女の背中をさすりながら、ぽつぽつと零される悲しみに応える。私の背に寄り添ってくれた、彼女のようになりたいと思いながら。
 その想いが、少なからず伝わったのだと信じたい。

「……文鴦殿、その言葉、信じるからね」

 そう言った名前殿の声は、うすく笑っているように聞こえた。  

憂うつはまだそこにあるけれど

title by 金星 170330