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「兄上、やったじゃないっすか!」
「なんのことだ?」
「今日! 名前殿を抱っこしてたでしょう!」
「ああ、……そのことか」
文虎の言葉に、自分の腕を見る。先刻までそこにあった温もりは、もう無い。
「恋とは、不思議なのだな。文虎」
無意識のうち、ぽつり、そう零していた。思いの外沈んだ声で、自分でも驚く。
「……何かあったんですか、兄上」
文虎が心配そうに見上げてきた。しまった、と思ってももう遅い。恋についての相談役として文虎に頼っているが、これはもっと上手い切り出し方ができれば良かった。
少しでもその心配を払拭できるように、真摯に言葉を並べる。
「名前殿に嫌われたくない、好かれていたいと思った。
小さくて細いなと思うと息が苦しくなるし、そんな身体で一生懸命になっているのを見るとかなしくなる。
彼女に触れるときは緊張する。
……ええと、不埒なことも、考えてしまった。
それから……」
医者にかかったあと、名前殿を工房まで送り届けたときにした会話。
司馬昭殿と名前殿の仲の良さを感じさせる話があった。それは彼女から聞いて既に知っていたし、それ以前に、私が彼女と友人関係になったきっかけこそ司馬昭殿の勧めによるものだった。
だというのに、いやだと思ったのだ。
司馬昭殿と名前殿の仲が良いことを、私は、いやだと思った。
「彼女と仲の良い相手に嫉妬を覚えた」
「嫉妬、ですか」
「ああ。
ならば私も彼女ともっと仲良くなれば良い、と思い直しはしたのだが。
あまり褒められたものでは無い感情だろう」
語り終えると、そうやって思い直すあたり兄上らしくて良いっすよね、と文虎はうんうん頷いた。私の抱いたものについて、負の感想は特に何も覚えていないようだ。むしろ、どこか感慨深そうにしている。
そんな反応をする理由は分からないまま、私は問いかけた。
「これも恋か?」
「はい」
「この理不尽な欲求が?」
「はい、恋っすよ。それはもう、ばっちりと」
文虎は至極当然そうに肯定する。が、私は未だ納得できない。
好かれたい、嫌われたくない、そう縋るものもあれば、助けになりたい、笑顔が見たい、そう急かされるものもある。
後者はいい。普段から様々な人に対して思うものととても似ているし、好感を抱いた相手に思うものとしても合点が行く。
しかし前者はどうだろう。相手の気持ちを催促するようで、みっともないし失礼ではないだろうか。(それにあの不躾な……、いや、やめておこう)
悩んでいると、文虎もううんと顎に手をやる。
「……言われてみると、確かに理不尽かもしれません。でも多分、お互い好き合ってるとうまく噛み合ったりするもんなんですよ」
そこで目をそらして、
「……うまくいかない時もありますけど……」
……そういえば、文虎も以前に「恋人と意見が合わず喧嘩別れした」と落ち込んでいた。
しかしすぐ、文虎は哀しそうにした顔を笑みに変える。
「兄上は真面目だから、そういうの考えちゃうんですね。ほんとは皆、そういうこと考えないで……、夢中になって見えなくなっちゃいながら、恋してるんだと思います。
正直、俺も兄上に言われるまで理不尽だなんて気付かなかったです」
「では、私はおかしいのだろうか」
「いいえ。俺、難しいことは分からないですけど、人との付き合い方なんて人それぞれなんだから、恋の仕方も人それぞれで良いんじゃないかと思うんすよ」
少し、目を見張った。文虎の考えは、私の考えよりずっと先をいっているように感じたからだ。自分の全てが文虎に優っていると思ったことはない。しかし改めてこうしてそれを見せられると、私の弟も弟の道を進み成長しているのだ、と誇らしくなるし、尊敬の念を覚える。
「……凄いな、文虎は」
「武勇では兄上になかなか追いつけませんけど、友達付き合いと女の子との付き合いなら、俺は勝ってますから」
文虎は嬉しそうに胸を張る。その通りだな、と私も言えば、彼はもっと笑顔になった。
「あ、でも、噛み合うか噛み合わないかの話では、兄上の考え方は良いんじゃないかなって思います。
相手のことを考えず、自分のしたいようにしちゃって、相手を傷つける、っていうのはいけないことだし、そういう恋をしちゃう男って結構居ますから。
だから兄上はすっげ、じゃない、すごいです」
かと思えば私が褒められる。慣れない分野ゆえ、褒められると少しそわそわした。だが、そう言ってもらえるのなら私はまずいことはしていないのだろう。
「でも、そっか。兄上が嫉妬か……」
ただし次の瞬間には、まだあまり飲み込めていないところを掘り返される。胸に刃物が突き刺さったような痛みを感じた。
思わず呻いてしまうと、文虎は面白そうにする。
「兄上は名前殿のこと大好きなんですね。兄上がこんなに『恋する男』って感じになるの、ちょっと意外でした」
「変か?」
「全然。むしろ良かったです、兄上にもそういう風に感じる人ができて。兄上、あんまり仲良い人居ないから」
それに関しては、気にさせてしまったことへの申し訳なさを感じる。こうなってみると、どちらが兄か分かったものではない。文虎はほっとしているように見える。
「名前殿お直接話したことはまだ無いですけど、きっと素敵な人なんですね」
「……ああ、私はそう思う」
彼女の、あの言葉を思い出す。
彼女のことを、他の人間がどう言うのかは知らない。そんなことは関係ない。私が彼女を愛おしく思っているのだから、それで良いのだ。
「幸せそうな顔してます、兄上」
「そうだったか?」
「はい。……良かったです。
一緒に居て幸せになれる誰かと兄上が一緒に居られるなら、それが一番っすから」
ああ、やはり文虎は自慢の弟だ。
私の家族は、私のことを自分のことのように大切にしてくれる。誇らしい。
……ただ。私は、私が幸せになるのではなく。名前殿を幸せにするだけでなく。名前殿と、幸せになりたいと思った。
そうだ、私は。
彼女と共に、笑い合っていたいのだ。