13

「……それは、本当ですか」
「あー、まあな」
「では、司馬昭殿。私は、彼女に」
「……謝りたいんなら好きにすると良い。ただな、文鴦」
「はい」
「なんかお前、結構いろいろ考えてるみたいだけどさ、ちょっとずれてるっつーか。もう少し気を楽にして大丈夫だと思うぜ」
「ずれ……?」

 名前殿に頭を下げている間、司馬昭殿との会話を思い出していた。
 名前殿が司馬師殿を敬愛されていたこと。
 名前殿が司馬師殿の死を深く悲しみ、部屋に引き篭り続けていたこと。
 私が何かを間違っているらしいこと。
 みっつ目のことについてはよく分からぬままだったが、司馬師殿の死に関わっていることについて、名前殿に謝罪するべきだと思った。
 罵られても良かった。彼女があの日泣いていた原因は、きっと司馬師殿の死のことだろう。その原因たる私を罵り、溜め込んでいたものを発散して、今度こそ名前殿がちゃんと笑えるようになるのなら、それは世の道理だ。
 そう考えて謝罪した私に、名前殿は言う。

「知ってるよ」

 ああ、知らないはずがない。心の中で頷きながら、彼女の言葉の続きを待つ。すると、顔を上げるように言われた。良いのかと思いつつ、元の体勢に戻していく。
 名前殿の顔が目に入る。
 今にも泣きそうだった。しかし、悲しみというよりは別の、なにか、懸命さと言うべきものを覚えさせられる。文虎が幼いころ、不安そうにしながらも自分の失敗を正直に伝えようとしていた、それを見たときと似たようなものを感じた。
 その必死な声に、耳を傾ける。

「それは文鴦殿のお父上の思惑であって、文鴦殿が謝ることじゃない。
 文鴦殿は文鴦殿だから、今ここに居るんでしょ。
 ……私、兵卒から聞いたんだ。
 文鴦殿は、自分で道を選んで、ここに居る。父親と同じ道ではなく。
 私はそれを、凄いと思う。尊敬はすれど、憎む対象にはならないよ。
 だから、さ」

 名前殿、と思わず口に出しそうになって、ぐっと堪えた。

「文鴦殿。少なくとも、私に関しては。お父上のことを気負わないで、自分の道を見ていてほしい」

 その歯止めが、正解だったことを知る。
 彼女の言葉は、あまりに。あまりに。
 ──私の背に寄り添う言葉だった。
 何と言えば良いのか分からない。私はこの感覚を言い表す言葉を持たない。
 ──私は、裏切り者の子だ。
 私を好意的に見てくれる者は居る。しかし、陰で謗る者が居ることも承知している。父に従い国を裏切ったことを。産みの親に刃を向けたことを。未だなお、この国で戦おうとすることを。
 私の選び取った道だ。自分以外の人間、父にさえ流されることなく、自分の意志で決めた道だ。それを後悔することはない。罵られることに苦しみはしても、曲げる気などない。私は私を信じてくださった司馬昭殿の下で、これ以上──それこそ、名前殿のような、悲しい想いをする人が生まれないように、そして敬愛する趙雲殿のような英雄になれるように、身命を賭す。
 私の選び取った道だ。進むと決めた道だ。
 ……それを、恩知らずと言うでもなく、恥知らずと言うでもなく。
 尊敬している、と。
 その道を見ていてほしい、と。
 私の選択を認める言葉を真っ直ぐにもらったのは、これが初めてだった。
 後悔することはない。曲げる気はない。誰に何を言われようと関係無い。そう思っていた。(けれど、認めてくれる人が居るということは、なんて……)
 胸の奥から込み上げるものがある。胃の腑のあたりから、あつい空気が食道をひといきに駆け上がって、閉ざした口の中、舌の根本で行き場を失いぐるぐる巡る。気道を圧迫し呼吸を難しくさせるほどに口内で暴れるこれは何と表現すれば良い感情なのか、私は知らない。
 名前殿と居ると、知らないことばかりに直面する。それを嫌だとは決して思わない。むしろ新鮮で、心地良かった。どう言うべきか迷い、結局仕方なく呑み込みなおすことになってしまったこの感情だって、あついぐらいにあたたかく、気持ち良く水分を含んでいて、飲み込んだ先から身体中にじんわり浸透して、指の先まであたためていくようだった。
 ああ、でも、その結果、私が口に出せる言葉が感謝の念とこれからも親しくしてほしいという申し出だけになってしまったのは残念だ。私が感じたものを彼女に伝えられないし、感謝を伝えるには「ありがとう」だけでは足りない。
 何か代わりにできることは無いだろうか。考えて、ひとつ聞いてみた。

「名前殿は、何をしている時が楽しい?」

 話を聞く限り、司馬昭殿が仰っていた通り私は間違っていた。名前殿は私のことを悪く思ってなどいなかった。(むしろ……、と先の言葉を思い出すと、また胸から喉をあつい空気が循環する)
 つまり、私が当初から感じていた、名前殿が気がかりだ、という気持ちにもっと積極的になって良いと思うのだ。
 名前殿が悲しい想いをしていたのなら、楽しいことをすれば良い。
 名前殿を、少しでもあの泣き笑いから遠ざけてやりたかった。
 名前殿が、ちゃんと笑うところを見たかった。
 その想いは、あの日よりも強くなっている。彼女と話す日々のうちに、何より彼女のあの言葉に、より好感を抱いたからに違いなかった。
 そして、名前殿に「君と話してる時が楽しい」などと言われたために、より強まった。うれしい、と素直に思うと同時に、何かむずがゆいものを感じて内心首を傾げる。あつい空気がふわふわしていた胸元を、今度はぞわぞわとかきむしりたくなるようなこそばゆさが走り回っていた。
 私がその不可思議な感覚についてひとり考え込んでいる間も名前殿は悩んでいたようで、私もハッとして声をかける。彼女は少し慌てながら「出掛けたり」と言った。
 なるほど。出掛ける。
 確かにそういうのもあった。娯楽には疎いが、言われれば分かる。早速ふたりで出掛ける約束をとりつけて、その場で解散となった。
 帰路に着く。

「……そういえば」

 ふと、今日は自分は立ちっぱなしで座らなかった、と頭に浮かぶ。しかし彼女が座れていたのだからそれで良いだろうと結論付けた。あとはもう、名前殿と出掛けるときのことを考えながらすっかり慣れた道を歩くだけ。
 歩むたび、どうしてだか、足を付ける地面がふわふわと優しい感触を伝えてくるように思えた。  

わたしの世界にはなかった

title by 金星 170315