08
私は驕っていたし、考えなしの馬鹿だった。
意志を持っただけで、皆と同じ場所に行けると思っていた。目的地を決めようと、歩いて行かなければ到着するわけがないというのに。
この愚かさを、私は呪う。
文鴦殿を尊敬していた。私の持っていないものを持っている彼は美しかった。美しいものを見るのは心を潤した。
そして、そんな彼に、精神はずっと先に在っても、体だけは隣に座っていてもらいたかった。自分がどうしようもない人間ではないと錯覚出来る気がしたから。
今は違う。
私は彼に、「君と話すのは楽しい」と言った。
本当のことだ。言葉通りのことだった。
私はもう、ただ純粋に、彼と居ることが楽しくなっていたのだ。
──あの時から。
文鴦殿の目を、初めて真っ直ぐ見た時から。私は気付いてしまったから。
彼がもともと優しい人だから居てくれていたのではなく、いつからか私に親しみを抱いてくれたがために、ああまで仲良くしてくれていたのだ、と。
それなのに。
長く部屋に篭り、不規則に寝て起きてを繰り返していると、日付の感覚が分からなくなる。時間は、陽光の具合と、偶然起きている時に使用人がご飯を置いていってくれるのとで推測しているぐらいだ。墨と木くずだらけの身体を綺麗にするのも、思いついた時にしているし。
ただ、文鴦殿と約束した日だけは、なんとしてでも叩き起こすよう使用人に言ってある。彼と会いたいのは勿論のこと、散らかった部屋を片付けなければならなかったからだ。
部屋の惨状を見回して息を吐く。あの設計図を探す時にいくらか片付けたはずなのに、もっと酷くなっていた。
──進むこと、失敗することに恐怖を覚えた後。それでもなんとかあの設計図の完成に取り掛かった。
進捗はほぼ無い。ほんの少し案が浮かんだには浮かんだけれど、間違いかもしれない、と思うと筆が止まり、描きかけの覚え書きが床に散らかった。
諦めた設計図のなりそこないの中には、実際は正解があるのかもしれない。……無いのかも、しれない。
そう怯えては自分の欠陥に苛々した。終いに悲しくなった。
そして、ふと思い至った。
文鴦殿から、もう離れよう。
約束した以上、その日は来てもらうけれど、彼に告げよう。しばらく仕事に専念するから会えなくなる、って。
驕りを捨てよう。もうやめよう。文鴦殿には私なんかと関わるのより大事なことへ時間を遣ってもらうべきだ────。
「──起こしてって、言ったはずじゃ」
「起こした、と言われたのだが」
「つまり私の二度寝か……」
約束の日。完全に寝起きのまま、文鴦殿を工房に招き入れた。使用人に頼んだことも、自分で意味を無くしてしまえば世話がない。あまり明るい部屋でないのが仇となった。大柄な文鴦殿でも座れそうな場所を見つけて甘んじてもらい、私も隣に座った。申し訳なさが天元突破している。やっぱり駄目だ、私は。
「すまない、後日にした方が良かっただろうか」
「ううん、約束したのに寝こけてたのは私だから、謝るのは私。ごめんね。
でも、文鴦殿が居心地悪いなら」
「そんなことはない!」
切羽詰まったような声に肩が跳ねた。私の驚きようにか、文鴦殿も目を瞬かせる。そして何か逡巡してからもう一度口を開いた。
「むしろ、名前殿は、……嫌では、ないだろうか。私と居るのは」
「え、まさか。むしろ嬉しいよ」
何を言うのかと思えば。文鴦殿と話すのは楽しいと言った筈なのだけれど、その言葉が信じられなくなるような行動をしてしまったのだろうか、私は。文鴦殿にそう思わせるなんて。
それを聞こうとして、やめる。君と居るのは楽しいと強く主張したところで、今後彼とは会わないのだから。代わりに、言葉を裏付けるようへらへら笑う。
「それなら良いのだが」
「うん」
「名前殿。会わない間、何も無かったか?」
「うん、なにも」
笑顔で首肯した。その顔の裏で、私は笑っていない。ほんとうに「何も無かった」から。
「名前殿」
「どうしたの」
「では、どうして、そんな顔を、……言葉は悪いが。
捕虜が、生きることを諦めたときのような顔を、なぜしているのだ」
笑みは、凍らなかっただろうか。
「……それ。もっと良い表現無かったの」
「私もそうは思う、……だが、そういう顔をする捕虜は、少なくないから」
「でも捕虜って。私は捕まってるのか。確かにこの工房とか牢みたいかもしれないけれど」
「いや、ここはあなたの城だろう」
「違いない。こんなところでも私の城だ。ああ、城と言えば」
言葉を連ねる。組んだ手の震えを誤魔化す。
「……名前殿。煙に巻かないでくれ」
「……けむにって、……そんな……」
呆気なく崩される。ついに歯がガチガチ鳴って、口元へ手を伸ばした。顎を両手で抑える。震える手では、震える顎関節も、止められない。俯くと、溢れる涙がそこに伝った。
……別に、死のうと決めたわけじゃない。
文鴦殿に別れを告げたあと、ひっそりと、食事を絶つなりなんなりして、消えるように死んでいけたらいちばん良いのに、と思っていただけだ。死ぬのさえ、私は自分で出来ないので。
「名前殿、あなたは……」
駆動する機械みたいにがたがた動く私の手に、文鴦殿がおそるおそる触れる。あたたかかった。
「どうして、そんな目をする。……その、誰かに、何かされた、とか、言われた、とか……?」
「ちが、うよ。……それに、わたし……死のうとなんて、してない、し……」
誰かのせいなのか、なんて、彼らしからぬことを言う。でもその理由を求める余裕が無い。頭がぐちゃぐちゃで、言葉だって溢れただけの何かだ。何を言っているのか自分でもあまり分かっていない。文鴦殿が私の背中をさすってくれているのだけは気が付いた。
「……私は、泣いている誰かに付き添った経験が殆ど無い。誰かに頼られたことも、苦しむ誰かを助けたことも無い」
それは違う、と心の中で否定する。私はずっと、君に助けられてきた。
「私は、名前殿に頼ってほしいと言った。だが、いざこうなってみると、どうしたら良いのか分からない。気の利いたことも言えないし、笑わせることもできない。すまない。
……それでも。あなたの傍に居ることだけは、出来る。あなたが、望んでくれるなら」
だから、そんなことを言わないでほしい。
触れられた手と背中が熱い。灼熱に晒されているのは、私の精神だ。その温度がある内は、私は彼に見捨てられないでいてしまっているのだから。
早く諦めてほしい。いっそ無関心になってほしい。そうだ、それがいい。そうしたら、何の未練も無く死ぬことができる。彼が悲しむかも、とかも、思わなくなる。それだけ引っかかっていたけれど、その楔を抜いてしまえる。
私のことを嫌ってくれ。興味を失ってくれ。
甘やかさないで。優しくしないで。二度とそれに頼りたくない。君の優しさにつけ込まないようにしようって、決めたんだ。
私には君を傷付ける勇気さえも無い。「傍に居てほしくなんかない」と言うことはこわくてできない。だから、もう、私という私の在り方を軽蔑してくれ。
「わたし、私は、どうしようもないやつだよ」
「なぜそのようなことを」
「だって……、わたし、こわくて、なにもできないんだ……。やりたいこと、やっと、みつかったのに。失敗したらって思うと、こわくてできない。
みんな、やってるのに。みんなやれてるのに。
私、ずっと、人に言われたことだけやってきた。人に頼って、生きてきたよ。でも、それじゃだめでしょう。みんな、自分のしたいことをして、生きてるでしょ……。なのに……わたしは……」
決めたはずなのに。と最後に吐き出した。思いつくままに言葉にした。言えていただろうか。嗚咽交じりでも、聞こえただろうか。聞こえていてほしい。私に失望してほしい。見放してほしい。私がどうしようもない奴だと知ってほしい。
誇り高い君には、清らかな君には、私みたいな成長の無い人間は、理解不能ではないのか。そうだろう。そうだと言ってくれ。
「……失敗したら、駄目なのか?」
「だめに、きまってる」
「それは、取り返しのつかない、何度でも挑めることではないと?」
「……そう、では、ないけど」
「では、再びやってみれば良いのでは」
……ほら。
しめた、と笑う。嘲笑なのか歓喜なのか判別はつかない。ただ笑った。
文鴦殿ならそうだろう。真っ直ぐで、懸命で、あの強い瞳で道を見据える君なのなら。君や他の人たちなら。
でも私は違う。何度でも立ち上がれるような力は無い。
「もういちどやって、また、失敗したら」
「それなら、やはりもう一度」
「……むずかしいなあ」
文鴦殿には出来ることでも、私には難易度が高すぎる。大体にして、そもそもの前提が違う。私は失敗することが怖くて立ち竦んでいると言っているのに、文鴦殿はそれでも歩き出した後のことを言っている。私程度のことには想像が及んでいない。
そうとはまったく気付かずに、当然のことだとひょいひょい言ってくるからこそ、……ほんとうに、彼は尊敬すべきすごい人なのだ。あなたなら出来る、みたいに根拠の無い無責任なことは言わないあたりも小憎らしい。
「……名前殿」
ほんの少しくらい声で名前を呼ばれた。とうとう、やっと、見放してくれたか、と思う。
文鴦殿の言葉を、期待して待った。
「もし、実際にいつまで経とうと成功しなかったとしても、私は何か手伝えることがあるなら手伝いたいし、あなたの奮闘を貶めはしない。私にはあなたについていることしかできなかったとしても、許されるなら、成功するまでそうしている」
────今、彼は、なんと言った?
ぽかん、と口が開いた。完全に予想外だ。いくら仲良くなってしまったとはいえ、器の大きさが尋常ではなさすぎる。
眼球から涙を搾りきって、文鴦殿をちらりと見る、つもりが、目が、離せなかった。
彼の強い瞳と目が合った途端、文鴦殿がゆるく笑ったから。私の好きな、あの柔らかい微笑みだった。
そのせいだろうか。口が勝手に動いて言葉を零す。
「──それは、なに。失敗しても、失敗し続けても、自分は見放さない、って?」
「ああ。その通りだ。ずっと居る」
凛とした声が、穏やかな空気を伴って耳に届いた。
なんて忍耐強さだろう。こんな泣き喚く奴の戯言を聞いて、それほど真摯な答えを返すとは。文鴦殿の性格からして、本気でこの発言の責任を取るだろうことは間違いない。
──……もう、良いかなあ。頼らないと決めたけど、文鴦殿が自ら利用されに来るのなら、その通りにしてしまって良いかなあ。
文鴦殿の言葉で、甘えがずるずる引き摺り出されていく。ほんとうにどうしようもない奴だ。決めた、くせに。決めたのに、失敗、している。やっぱり私は失敗する人間なのだ。
……でも、ここまでくると、前の負い目を感じる依存よりもずっと気が楽だ。すう、と息をすると、肺臓へ簡単に空気が通っていく。
「……文鴦殿、その言葉、信じるからね」
こんな念押しをしなくても、彼がきっと果たしてくれることは分かっている。
だから、ただ、なんとなく言いたくなっただけだ。私は君を信じているのだと、私に好感を持ってくれている文鴦殿に、少しでも返したかっただけなのだ。