06

 文鴦殿は、優しい人だ。
 ずっとそう思っているだけだったはずなのに。
 ──いつから。
 彼に抱えられた腕の上、揺られながら、答えの出ない問いを繰り返している。


「……君、本当にさあ……」

 呆れたような声になる。それを聞く文鴦殿は、困りつつも考えを改める気はない様子だった。
 人目を避けつつ城を出て、馴染みの医者のところに連れて行ってもらうと、私の足は捻挫しているとのこと。
 それを聞いていた文鴦殿は、なんと、「家まで送る」と。しかもまた抱き上げて。呆気に取られる、以上の反応をしてしまうほどの衝撃だった。そして何を言おうと「暗くなってくる時間帯だ」だの「安静に」だのと主張して聞いてくれない文鴦殿にも、医者にも後を押され、私は降参したのである。

「……あ、次はふたつめの角を右に行ってもらえる?」
「ああ、分かった。そのあとは真っ直ぐか?」
「うん」

 人気の無い道を選びながら、城に向かってもらう。司馬師殿が亡くなったあとから、家の使用人にご飯の配達だけを頼んで、ずっと仕事場たる工房に泊まっているのである。元々開発のためそういう風に泊まることはそれなりにあったから、そう変わったことでもないのだけれども。引きこもっているという点は変わっているが。
 ──でも、今日からは……。
 とくとくと湧き始めた想いを掬い上げて、身体中染み込ませるように飲み込んだ。
 変わる景色を眺めながら、見慣れた工房(めちゃくちゃに散らかっている)の様子を頭の中に描きだす。

「着いてからは安静にするんだぞ」
「んー、出来る限り」

 文鴦殿の言葉と視線につられて、自分の足首を見る。そして彼を見上げ直して答えると、私の答えが曖昧なせいか咎めるような目をされた。そうは言われても、ずっと寝台の上に居る訳にもいかないのだ。

「でもまあ、しばらくはあんまり外に出ないで、工房に篭ると思うよ」

 まるで文鴦殿と出会う前の私である。けれど、その中身は違うことになる、と思う。
 私の補足に、文鴦殿は面食らったような顔をした。そのまま考え込む。文鴦殿、と声をかけると、すっ、と真っ直ぐに私を見た。

「その間あなたに会えないのだな」

 ……自分で、見ないようにしていたことを突き付けられた。顔が歪みそうになって、ちょっと俯く。
 外に出ず、あの場所に行けなくなって、文鴦殿に会えなくなるのは寂しい。今日もあまり話せなかったしできれば近いうちにまた会いたいのだけれど、文鴦殿の様子からするとあの場所に行くのさえ怪我を心配してくれてしまうだろう。
 迷って、言葉を選ぶ。

「……確かに、会えないけど」
「やはり」
「でも、その、来たいと思ってくれたなら、来て良いよ。工房。
 君と話すのは、楽しいから……」

 少し図々しいかもしれないと思いつつ、どうしても彼に会いたくて言ってみたくなった。文鴦殿を伺うと、彼は目を瞬かせているところである。やはり嫌だっただろうか、何か言い直そうか。
 彼の言葉を待たずに、けれど彼の方が先に言う。

「是非、と言いたいが、名前殿は良いのだろうか。女人の私室に私のような……」
「私室っていうか、仕事場だよ。仕事があるときは依頼人の方も招いたり、あと昔は司馬昭殿もたまに逃げ込んできたりしたから」
「司馬昭殿が……」

 彼と会えなくなるのは寂しいから、引き留めるために私は必死だ。慌てて彼に手を伸ばした言葉は、静かな相槌に受け止められ、そのまま沈黙が続く。

「……話は何度か聞いていたが、名前殿は司馬昭殿ととても仲が良いのだな」
「ああ、うん、そうだね」
「あの木陰も、もともとは司馬昭殿と」
「そうそう」

 やがて口を開いた文鴦殿の問いかけは、少し沈んだ声をしていた。落ち着いた口調で話す人だけれど、そうではなく、どこか暗く聞こえる。
 気を悪くさせてしまった。胸の奥がざわざわする。
 少し視線をずらせば目に入るほど近くにあるはずの彼の顔から目を逸らした。見るのが怖い。

「分かった。名前殿、必ず訪ねよう」
「……え、うん、ありがとう」

 そこに掛けられた声はもう沈んでいなかった。早くもざわめきが収まってくる。

「でも、あの、文鴦殿も忙しいだろうし、鍛錬場からも遠いし、無理そうだったら来なくても」
「いや、絶対に行く」

 怖気付いた私に対し、文鴦殿は「絶対」ときた。随分しっかりした声に驚いて思わず見上げると、彼は真っ直ぐな瞳で私を見ていた。ぐ、と息を飲む。
 ……文鴦殿は、意志の強い目をする人だ。やさしい目元を緩ませて、綻ぶように笑うのに、目の奥にはしっかりと柱のように太い芯がある。
 彼には到底及ばぬ、どうしようもない私を、彼は、正面から見据えてくる。それは私を、心臓を掻き毟りたくなるような気持ちにさせるのだった。苦手だった。でもそう思うくらい、真摯でしたたかな文鴦殿の人柄を、好きだ、とも思った。

「来てくれるんだ」

 胸がどくどく唸って、耳まで響いてくる。目も眩むようだ。
 呟いたのにほど近い言葉へ、ああ、と肯定が返ってきて、嬉しくなる。

「ありがとう」
「いや、私がしたくてしたことだ」

 礼にさえ彼は首を振る。こうやってあくまで自分の意志だと貫くのだから、文鴦殿は文鴦殿だ。

「そうしたいって思ってくれたことも、助けてくれたことも、私は嬉しいよ」
「……そうか」

 なんだかうずうずしたので言ってみると、文鴦殿は困ったように笑った。でも嫌そうではなかったから、良かった、とほっとする。確かに抱き上げられたのはこっぱずかしかったし戸惑ったし、何かしら噂が立ちそうだけれど、気遣ってくれたのはほんとうに嬉しかったのだ。

「……文鴦殿、工房、見えてきた」

 少し彼に寄りかかり、体勢を安定させて、片手で指をさす。そちらを見た文鴦殿に具体的に工房の場所を言うと、彼は頷いた。
 彼の足で、一歩ずつ工房に近付いて行く。
 ──着かないで欲しい。まだここに居たい。
 ふと浮かんだ欲求は持ってはいけないものだった。いけないいけない、と振り払う。
 私は工房でしたいことがあるのだ。そしてそれは、この先文鴦殿と共に居るために必要なことで、そのためには今は我慢しなければならないのである。私はずっと、人に頼って生きてきた。もう、それではいけない。ひとりで歩けるようにならなければならない。
 体重を預けていた文鴦殿の体から身を起こして、降りる準備をする。彼が気遣わしげに見てきたけれど、それに甘えたくなるのをグッと堪えた。

「ありがとう。降ろしてもらえる?」

 我が工房の扉の前に着いたので、文鴦殿に声をかける。彼は、気をつけてくれ、と言って私を下ろした。私がしっかり立てるまでどころか、立ってなお現在進行形で手を添えてくれているのだけれど、そこまで心配しなくて良いのに。精密機械でも扱っているかのようだ。

「名前殿、訪問して良い日は?」
「うん、……早くて5日後かな」
「では5日後、大体いつもの時間はどうだろうか」
「ばっちり」

 文鴦殿は、話しやすくするためか巨躯を屈めてくれている。おかげで彼を見上げる首はあまり疲れない。
 慎重に私の体から手を離す文鴦殿を少しおもしろく思いながら、もう一度礼を言って、扉に手をかける。文鴦殿は相変わらずはらはらした顔で私を見ていた。まったくもう。
 またね、と手を振って、工房に踏み込む。捻った足がずきんと突っ張った。……思っていた以上に歩きにくい。歩けないかもしれない、と息を飲むのを堪えて、文鴦殿の視界から素早く去る。心配されるのは目に見えていた。
 扉を閉め、陽が沈みかけ、ぼんやりと薄暗くなった工房の全容を見渡す。全容と言っても、殆ど窓際しか見えていないけれど。捻挫していない方の足が、床にある何かにこつんとぶつかった。

「……この有様じゃ、彼に来てもらえないな」

 司馬昭殿にも言われたように、私の工房は散らかったままである。片付けなければ、と息を吐いた。  

どうか僕を選んでくれたら

title by 金星 161205