05
「俺はすぐ逃げたくなっちまうんだ」と、彼は笑った。それはいつもの明るく懐こい笑顔じゃなく、自嘲と呼ぶべきものだった。
では、それを聞いていた私はどんな顔をしていたかというと、ただそれを、そうなんだ、と受け入れるだけ、という取り立てて言えることもないものであったし、彼への返答もその通りであった。
言葉の意味を理解したのは、彼──夏侯覇殿が出奔したさらに後、司馬師殿が亡くなった時だった。
私は愕然としたし、焦燥した。
夏侯覇殿はまるでそれを恥のように言っていたけれど、こんなこと言うべきではないと自分でも分かっているけれど、それは私の尊敬に値することで、私が持たないものだった。
「逃げる」とは、最初に道があるからこそできることである。そして、また別の道を選ぶことでもある。
夏侯覇殿は私と違った。私はずっと流されるまま生きてきて、あの日も自分の意見など無く聞くだけで終わった。
もし、あの時私が夏侯覇殿に何か言っていたとしても、夏侯覇殿はきっと私の隣から居なくなっていた。皆、そうして私の先を行く。
はやく皆と同じにならないと、私は未だひとりのままだ。
文鴦殿と遊びに行ってから数日、いつもの木陰には行っていない。元々毎日会っていたわけでもなし、不自然ではないだろう。ただ今日は違う。今日はそちらではなく、鍛錬中の文鴦殿を見ることが出来る場所へ向かっていた。休憩ついでなのか女官たちが足を止めているけれど、私は具体的に言うと、訓練所の隅、柱の陰、という人目につきにくいところに居る。彼を見たい気持ちはあるが、少々気まずく、気恥ずかしいのだ。
──だって、気付いてしまったから。
息を吐き、柱に背を凭れて、訓練所を見た。文鴦殿は、ずっと鍛錬を続けている。
その様子はとても直向きだ。今日は確か自主鍛錬の日で、実に真面目である彼は、槍を振るい、投げ、また構える。見据えるのは、真っ直ぐ、その先。まるで敵の兵が見えているかのようだ。
洗練された動作は、趙雲の再来と評されるのも納得がいく。彼の武は並大抵のものどころか、どんな将にも勝るものと見えた。
私と過ごす時の、穏やかで落ち着いて、たまに若い快活さを見せる文鴦殿とは全く違う。鋭く、熱く、圧倒的な力を振るうひとりの武人。私の知らない文鴦殿。
心臓がぎゅっと握られる。刃を入れた桃から蜜がとくとく溢れるのを見たときの、あのときめきよりもずっとわくわくする。不思議な感覚だ。
だけれど、変に胸騒ぎもする。口に運んだ桃が、いやなえぐみを伴って舌を刺す。桃の傷んでいるのを見落としたのだろうか。いつだったか郭淮殿に桃を頂いた時も、そういう風になってしまった。
そんな私の眺める先では、文鴦殿が未だ槍を振るっている。気迫のこもった声。
傷んだところは切り落としてしまって、かっこいいなあ、と呟く。心臓が痛いのに、頬は緩む。人目のつかないところに居て正解だった、誰にもこんな顔は見せられない。
彼の鍛錬の様子はもうずっと見ていたいぐらいだ。実際、見始めてから随分経っている。とはいえ、そろそろいつもの場所に行くべきかもしれない。気恥ずかしいのは気恥ずかしいけれど、会いたくないかと言われたら否だ。
柱から離れていく。できるだけ人に見つからないように注意を払い、周りを見る。
足が突っかかった。
「うわっ!」
視界が閉じる。身体に衝撃。その後で、痛い、転んだ、凄い音がした、痛い、と情報が滝のように流れ込んできた。周りばっかりを見ていて、足元の段差に気付いていなかったらしい。
「やっば……」
動きたくない。痛い。右の足首ががずきずき痛む。転んだ瞬間、内側に曲がってしまったのはなんとなく覚えている。
でも、とりあえず起き上がらなければ。それでいつもの場所に行くのだ。文鴦殿と話をしたい。
「名前殿!」
「えっ」
声に飛び起きる。足首が悲鳴を上げたけど、むしろ喉から悲鳴を上げたい。
見れば文鴦殿が此方に駆け寄ってきていた。見つかった!
「転んだのか!? 怪我は!?」
「いや、大丈夫、大丈夫だから、文鴦殿は鍛錬を」
「今はあなたの方が大事だ!」
きゅんとした。
いや、そんな場合じゃないのは分かっている。私の前に屈み、険しい顔で私のことを見つめてくれるのはなんだか嬉しいけれど、何よりも文鴦殿の鍛錬の邪魔をしてしまったことが申し訳ない。
ちゃんと冷静に考えてみろ。
今の私は、彼が自分の道を歩くのを、そのために強くなろうとするのを引き留めている。
「ほんとに、大丈夫だから」
何も痛くないような、宥めるような声と笑顔になっただろうか。言葉の信憑性を高めるために立ち上がろうとして、
「そうは見えない」
文鴦殿に腕を掴まれた。掴まれたとは言っても怪我人疑惑がかかっているからか、その大きな手で包まれていると表現した方が正しい。
中腰の状態の私の視線が、珍しくほぼ真正面にある文鴦殿の目のものとかち合う。彼のそれは、切実な色を帯びていた。
平静を装うのに使う力をもう一段階引き上げる。むしろ視線も逸らしてしまった。
「……大したことないよ」
文鴦殿は大袈裟だ。心配するには値しないのに。
「将が戦場で受ける怪我と比べたら、全然でしょ」
彼にも納得がいくような言葉を引っ張ってこられたと思う。
頻繁に戦場に立つ文鴦殿には、これが一番わかりやすいはずだ。
だから口に出して、それで自分でハッとした。
──そうだ、文鴦殿は戦う人だ。彼は間違いなく勇将で、一騎当千の働きをしていることだろうけれど、戦う以上は彼も怪我をすることがあり得るのだ。
もしかしたら、近いうちに死んでしまうかもしれない。
そういう置いて行かれ方も散々してきた。郭淮殿も司馬師殿も戦いの最中で亡くなった。万一、文鴦殿まで……。
心臓を沸騰した鍋に投げ込まれたみたいだった。あの桃が傷んでいたのもきっとこの鍋のせいだ。熱い湯で心臓をぐらぐら煮込まれては私も笑い続けられる自信が無いから、一刻も早くこの場から逃げ出したい。
でも、掴まれている腕を引き抜こうとするのに、上手くいかない。文鴦殿の手に私の手首が引っかかっている。
離さないつもりなら、せめて何か言ってほしい。私が今言ったことに、確かに、なり、それでも、なり、答えてほしい。思考を会話に割かないと、暗いことを考えてしまう。
だんまりの文鴦殿に、折角外した視線を戻して言葉を促した。彼の目は見られず、頬に集中するだけの中途半端なものだ。しかし効果はあったらしい。
「小さな怪我が大事になる場合もある」
それはまるで、文鴦殿が死んでしまうかも、をより強めるような言葉で、やっぱり何も言わせず力づくで逃げた方が良かったか、と後悔した。鍋の温度が上がっている。
「だから、そんなの、文鴦殿だって同じじゃん。むしろ戦場の方が、死ぬかもしれないのに」
八つ当たりに近いのか、八つ当たりそのものなのか、とにかく自分本位の強い語気だった。拳を握る。
耳に届いた。
「私は死なない」
ば、と、顔を上げる。
文鴦殿の眼差しはやはり、真っ直ぐにこちらへ向けられていた。鈷藍の瞳の奥に、静かな、けれど強い光が見える。
「私は、志を果たすまで死なない。果たしたとしても、司馬昭殿の治める、平和な世を見届けるまで生き続ける」
私の心を見透かしているようだった。都合の良い言葉を吐かれているようだった。
だけれど、文鴦殿がそんな器用な人でないことも、ずるい人でないことも、分かっている。これはただ彼の意志なのだと飲み込むしかない。震える手に力を入れて誤魔化した。
「……わかった。馴染みの医者に診てもらうよ」
「私も同行する」
断定口調で告げながら、文鴦殿の手が私の背へと位置を変える。私が立ち上がるのを手伝ってくれるらしい。
「変わり者のうえに心配性か、君は」
いつだったかを思い出して、感情の誤魔化しを口にする。文鴦殿はこちらに視線を送ったあと、何も言わずに私を抱えた。
抱えた?
ぐわっと視点が一気に上がった。高い。文鴦殿を見た。近い! 文鴦殿、顔が、近い!
「い、いや、文鴦殿、ちょっと」
「怪我をした足で歩かせるわけにはいかない」
「し、心配性だなあー!」
まさか横抱きにされる日が来るとは思わなかった! しかも相手は文鴦殿だ。降ろしてと言っても、何か理屈を並べても、きっと降ろしてくれない。
ここは訓練所で、思い切り人目がある。先程からやりとりを見られてはいたけど、もっと目立ってしまっていた。これは噂になるのを覚悟しておくべきだろう。文鴦殿は恥ずかしかったり悪い噂だと後悔したり、……正直言って、しなさそうだ……。
もう諦めることにした。そうすると自分の腕をどうしたらいいか迷って、身体の上に置く。居心地が悪くて、微妙に身体が安定しない。私を気遣うような速度で運んでくれているから、まあマシだけれど。
「歩くつもりだったのに」
好奇心やら羨望やら害意やらの視線から全力で意識を逸らしながら、あからさまにぼやいておく。害意ではないものの、優しくはない視線がすぐ傍から注がれた。
「無理をしては、悪化するだけだ」
「……そうかもしれないけど」
「……私は、あなたとそれなりには交流を深めたと思っている。だから、辛いなら頼ってほしいし、助けになりたい。あなたひとり抱えることなど、私には容易いのだから」
男前な台詞を、男前な顔で吐く人である。肺のあたりが痛い。だから貧乏籤を引くんだとかなんとか言ってやれる言葉は浮かぶのに、喉にひっかかって出てこない。
代わりに口の中の空気がやたらと甘いから、もしかすると茹でた桃は美味しいのかもしれなかった。溜め息みたいに吐いた息も、湯気が混ざっているのか熱っぽい。
文鴦殿は訓練所に居る少年(文虎、と名前を呼んでいたので誰だかわかった。弟君だ)に声をかけて鉄擲槍の番を頼んだ。私も彼に軽く会釈する。まさか弟君との初の顔合わせがこうなるとも予想だにしていなかった。情けない。
諦めるべき出来事が続けて重なり、もういいや、と身体から力を抜く。文鴦殿の腕はしっかりと私を支えていて、足取りは微塵も揺るがない。
彼の身体の方へ体重を移動し、凭れかかる。組んでいた手を離して、軽く彼の首元へ回した。
「……ありがとう、文鴦殿」
礼の言葉さえも熱くなっていた。小さな声でもあったけれど、文鴦殿の耳にはきっと届いたと思う。
煮え湯から立ち上る湯気は私の目にも到達したようで、零れないよう目蓋をした。