04
私の家と司馬家の親交はそれなりに旧く、物心ついた頃には既に司馬師殿や司馬昭殿のことを知っていた。私の父は司馬懿殿とそれはそれは仲が良く、よく私に言って聞かせた。「お前は、あの方の息子、司馬師殿の助けとなるのだよ」と。それを何度言った頃だろうか。父は急逝した。
私は父のその言葉を胸に留めて生きてきた。司馬家の方々は私にとても優しくしてくださったから、司馬師殿に仕えるのは苦でなかった。
だけれど、その忠義は果たしてほんとうに自分のものであったのだろうか。父の言葉にただ従っただけの、与えられただけの志だったのではないだろうか。
そしてそれさえも失くした私は、どうにかまっとうな人間を装って、日々をやり過ごすようにして、辛うじて息をしていたのだ。
そんな中である。文鴦殿の噂を聞いたのは。
食事時とはまだ言えない頃、私は文鴦殿と待ち合わせていた場所に来た。彼は既に佇んでおり、その巨躯の後ろ姿はすぐに見つけられた。私も随分早く来たつもりなのだけれど、文鴦殿はそれよりも早かったらしい。真面目なことである。これくらいの頃合いで来れば、夏侯覇殿とは到着の早さを争えるものだったというのに。
「文鴦殿、待たせたね」
「いや、気にせずとも良い。あまり長い時間でもなかったしな」
「ありがとう」
直球な言葉が彼らしい。
ただ、私の隣に来た文鴦殿は、どこかそわそわと落ち着かなかった。何か引っかかることでもあるのかと疑問に思う。
「……食事にはまだ早いか」
「そうだね、混みそうな時間より早めに行くにしても、少し余裕があるかな。
文鴦殿、どこか他に行きたいところ、あったりする?」
「それが、分からない」
文鴦殿の声は困っているものだった。言い回しにも違和感がある。
「思い付かない、じゃなくて?」
「ああ。今まで、料理を食べに行くなどが目的で街に来たことがあまり無かったのでな」
その答えに納得する。生真面目で真っ直ぐすぎる文鴦殿には、こうして遊びに出るという発想が無かったわけだ。そういえば文鴦殿が私にする話は文武に関するものばかりで、何をして息抜きをするだとか、何が趣味だとかは話題に上がらなかった覚えがある。
──というか、友達居たのかな、この人。
失礼だけど、割と本気でそう思う。
遠くから羨望や尊敬や嫉妬の視線を向けられる様子は想像に易いのに、隣で一緒にわあわあ騒ぐ誰かの存在は浮かんでこない。たまに話に出てくる弟君ぐらいだろうか。
……もしかすると、私は、彼にとって希少な存在に成り得るかもしれない。
優越感らしきものが湧いた。気分が良い。汚い感情なのは今更だ。
「じゃあ、文鴦殿。街で遊ぶ方法を伝授しよう」
「おお、それはありがたい!」
喜色に富んだ返事が返ってきた。その勉強熱心さは美徳だけれど、幾らか力を抜いた方が良いんじゃないだろうか。まあ、少しずつだ。
「とりあえず料理屋までの辺りをうろつこう。行く場所を決めずに歩いて、見て回って、目を惹かれたものがあったらそれに誘われるのも一興だよ」
「なるほど」
感嘆する様子に、(実際褒められたことは思っていないけれど)悪いことをしているような気分になる。でも同時に、なにか照れくさい。こういう感情は、久しぶりかもしれない。
嬉しいのを誤魔化したいような、大事に持っておきたいような心持ちで、文鴦殿を誘導する。料理屋のある方面へ歩き出した。
そうして街を巡っていると、文鴦殿はやはり目立つうえに慕われているらしく、時たま声を掛けられる。それに困惑したり笑ったりしながら応対しつつ街を歩く文鴦殿は、結構楽しんでいるようだ。時たま気になる店(ほぼ武具か書物の店である)を覗きたがる彼に付き合うのも気が楽だった。
とうとう料理屋に入り、食事を前にしても、文鴦殿は嬉々として話しだす。
「人々の営みを見るのも良いものだな」
「うん、私も久し振りに来られて良かった。
ちゃんと意識して見てみると、新しい発見があったりするんだよね」
向かい側に座る彼のうきうきしているのが空気で伝わってきて、分かりやすい人だと思う。
けれど文鴦殿は、ああ、と私の言葉に頷いたあと、しっかりした声で言った。
「笑う人々も居れば、苦しむ人々も見受けられた。
やはり私は、この乱世を終え、皆が笑っていられる世にしたい」
──目の付け所が真面目である、という程度で済ませられれば、良かった。
私の知る将たちもよく口にする「乱世を収束させ、平穏の世を作りたい」という想いは、あまりにも壮大な信念だ。
ずっとひとりの人のためにという気でいた私には、世を変えるなど規模が違いすぎる願いで、あまり実感に繋がらない。
しかしその信念を、私と歳の変わらぬ文鴦殿は抱き、そのための道も自ら選び取ったのだ。
──私は、彼のことを聞いた時からずっと、なんてすごい人なんだろうと思っている。
そして私の周りにはそういうすごい人たちばかりで、私と同じところに居た人もどんどんすごい人になっていって、立ち止まったままの私はひとり置いて行かれていくのだ。
もう、ひとりになんてなりたくないのに。
「名前殿、食べないのか? もしや腹でも」
「ああ、はは、食べるよ。ただ文鴦殿はすごいなって思ってただけ」
急いで弁解して、笑う。
文鴦殿は相槌を打ってくれたものの、些か戸惑っているようだった。失敗したな。食事を口に運んではぐらかす。懐かしい味がするのは、ここが夏侯覇殿とよく来た店だからだ。
そう考えると私って、はたから見ると名高い男性と交流しまくってる贅沢な奴だよね。
文鴦殿の噂は、兵卒だけではなく女官もしていた。強い、礼儀正しい、体格に恵まれている、眉目秀麗だと言って。
女官たちからは今までも司馬師殿達との仲を羨まれることはあったけど、それに拍車がかかりそうだ。まったく、中身も優れているということは分かっているけれど、美形というやつは。
思って、はた、と気付く。
──私、文鴦殿の顔をまだ見たことがない。
いくら彼の背が高いからといって、彼と居るのは大抵座っている時で、立っている時よりも身長差は感じないのに。
そっと顔を上げて、文鴦殿を窺う。食事の方に目をやっていた。丁度良い機会である。今のうちに彼の顔をさらっと観察させてもらうことにした。
……なるほど、綺麗な顔をしている。しっかりと芯の通った声をしているわりに、顔は柔和な印象を受ける、うつくしい造形をした男だ。女官が色めき立つのも分かるというものである。
「あ」
文鴦殿が声を漏らす。目が合ったのだ。
やはり勇将、視線には敏感か。目を逸らそうとして、
「名前殿」
微笑まれた。そのまま固まる。彼の目を見たままになった。
「え、う、うん、……、なに」
その眼差しが、あんまりにも柔らかい。
心臓がいやに煩く音を立てている。
美形の微笑には司馬師殿で慣れていたつもりだったけれど、文鴦殿は元々穏やかな顔立ちだからだろうか、やたらと優しげに見えた。私の胸を強く揺らしたのは、それが要因だろう。
──ほんとうに?
自分の思考に疑問が湧く。
──ずっと目を背けていたものがあったんじゃないか?
そう気付くと、ぱちりぱちりと部品が組み合わさって、整合していく。それを、私は夢だと信じたかった。なのに鳴り止まない心臓の音は、完全なる現実で。
気を悪くしたら申し訳ないのだが、という文鴦殿の声が遠く聞こえるのに、私の耳は取りこぼすこともしない。
「嬉しく思う。あなたがやっとこちらを見てくれたこと」
「は──」
か、と顔に熱が集まる。
胸の奥が大きく大きく揺さぶられた。
顔を覆いたいのに、文鴦殿がああ言った手前、視線を外すのは憚られて、こまる。制御がきかない。取り繕うのって、どうしたらいいんだっけ。
どうにかこうにか呼吸をして、膝の上で手を握った。落ち着け。落ち着け。
渦巻く感情は皆が皆違う方向を向いていて、一口に言えない。消化できずせり上がってくるのを押し戻したくて、いくらかの深呼吸の後、杯の水を煽った。
「……いつから……」
つい出た言葉は、我ながら戸惑いに溢れている。文鴦殿はちょっとだけ困ったように、けれど穏やかな目をして笑った。