03
外に出るのは億劫だ。相変わらず動く気力が無いのがその要因である。
それでも、行ってみようかな、と思うのは、ひとえに文鴦殿との交流を望んでもいるからに他ならない。
あの場所で、案外頻繁に来てくれる彼と隣同士色々と話していると、私がどうしようもない人間ではないと錯覚出来るからこそなのかもしれなかった。
文鴦殿は、私を心配してくれたり、褒めてくれたり、話したいと言ってくれたりした。
私より立派で、前を進んでいる文鴦殿が、私の隣に座って居てくれた。
おかげで、私は自分がどうしようもない人間なのでは無いのだと錯覚できた。
それは彼自身の優しさから来ているだけで、私は変わらずどうしようもない人間でしかないのに。
「名前殿」
「やあ、文鴦殿」
文鴦殿は、今日も来てくれた。
彼が隣に座るのを待ちながら、今回はどんな会話になるだろうか、この前は美味しい料理屋のことを教えたけれど、と考える。彼はよく蜀の猛将・趙雲殿の話をしてくれるから、またそうなるだろうか。
そうやってわくわくしていても、しかし文鴦殿はいつものように私の隣に座っただけで、何も口にしない。心なしか、隣から伝わる空気もじわじわと揺れていた。
焦燥が募る。私、君と話したいのに、君は私と話したくないんだろうか。
口を開きかけたその時、文鴦殿が突然立ち上がり、私の正面に来た。私は突然のことに対応しかね、その間に彼は勢い良く頭を下げる。
「すまない」
「……え、どうしたの?」
私は馬鹿みたいに口をあんぐりとさせてしまった。随分位置が低くなった文鴦殿の肩のあたりを見ている。
文鴦殿は私の疑問に答えるように、言葉を続けた。
「……聞いたのだ。
名前殿が、司馬師殿を敬愛されていた、と。
そして、司馬師殿の死後、あなたは部屋に篭りきりで、今も、仕事も手につかないほど深く悲しんでいるのだ、と」
ひゅ、と喉が鳴る。
文鴦殿はもう一度、すまない、と言った。
「司馬師殿を射たのは、父・文欽の手の者だ」
それはひどく申し訳なさそうな声色で紡がれている。私はどこか、あつく、ぼうっとした心地で、
「……知ってるよ」
文鴦殿の肩がびくりと動く。驚いたようだった。膝の上で組んだ手に視線を落としながら、私は文鴦殿に顔を上げるように言う。彼の上半身が逡巡しつつも持ち上がっていくのが、視界の端で見えた。
「それは文鴦殿のお父上の思惑であって、文鴦殿が謝ることじゃない。
文鴦殿は文鴦殿だから、今ここに居るんでしょ。
……私、兵卒から聞いたんだ」
言葉を切って、息を吸う。
喉が震えた。握る指が痛い。
「文鴦殿は、自分で道を選んで、ここに居る。父親と同じ道ではなく。
私はそれを、凄いと思う。尊敬はすれど、憎む対象にはならないよ。
だから、さ」
文鴦殿は、黙って聞いていた。
伝えるのにいっぱいいっぱいで、声を取り繕えたか、変な顔をしていないか、気にすることができていなかったけれど、大丈夫だっただろうか。これは本当のことだから、どうか伝わっていていてくれ、と願う。
私が仕事を疎かにしているのは事実だ。司馬家と交流が無く、司馬昭殿に大目に見てもらえていなかったら、今頃無能として切り捨てられていただろう。
「文鴦殿。少なくとも、私に関しては。お父上のことを気負わないで、自分の道を見ていてほしい」
仕事に手がつかないのは、司馬師殿の死に悲しんでいるから、だけとは言い切れない。
私にとって。
司馬師殿に尽くすことは、私の道だった。生きるための術だった。
その導を失った。
つまり私は今、何のために生きれば良いのか、途方に暮れているのだ。
そんな風に立ち止まった、どうしようもない人間なのは自分だけで、周りの皆はちゃんと生きるということが出来ている。私もそういう風に、まっとうに生きるということをしなければならない。
それが当然だと分かっているのに、どうすることもできていないからこそ、私はどうしようもない。
だけど、文鴦殿は違う。
父親に従うのではなく、自分の道を選び取った。
それがめちゃくちゃに羨ましくて、遠くて、その想いが尊敬の念へと変じていく。だからこそ、文鴦殿は文鴦殿として在ってほしかった。今更お父上の道なんて持ち出して、障害を増やさないでもらいたかった。
「ありがとう。……これからも、親しくさせてもらって良いだろうか」
文鴦殿のお礼と問いに、つい笑う。
なんて明るく眩しい、人を信じるばかりの言葉なのだろう。私はただ、君に憧れを押し付け、その優しさを利用しているだけなのに。
思いながらも頷いて、身勝手を重ねる。
「司馬昭殿が名前殿との交流を私に勧めてくださった理由に、合点がいった」
彼も勘違いを重ねた。
私は曖昧に笑うだけにする。
文鴦殿は声色をまた静かなものに変えて、
「……あなたに尋ねたいことがあるのだが」
どうも話題を変えるつもりのようだった。この人、切り替えが早い。私もそのあとを追いかけて、普段通りに首を傾げる。
「名前殿は、何をしている時が楽しい?」
なんだ、そんなことか、と思うものの、何と答えるか迷う。最近の楽しいことなんて、文鴦殿と話すこと以外に無い。
「……君と話してる時、が楽しいけど」
「それは、……嬉しいが……」
伝えると、声は明るくなったものの困っているようだった。じゃあ、これ以外ならなんだろう。過去の自分を記憶の中から掘り起こす。
……例えば。
司馬師殿に自分の腕を褒めてもらった時。
司馬昭殿とこの場所に居た時。
夏侯覇殿とご飯を食べに行った時。
郭淮殿に頭を撫でてもらった時。
……思い出せば思い出すほど、もう叶わないことばかりが浮かんできて、少し息が詰まる。
「名前殿」
「ああ、あはは、改めて考えたら、どれから言おうかなって。色々あるよ、出掛けたりとかさ」
涙が落ちそうになったところで声をかけられ、咄嗟に言い訳をした。あながち間違いではない。
文鴦殿は、そうか、で済ませてくれて、納得してくれたのか、と胸を撫で下ろす。
「では、名前殿。
私と、出掛けてくれないか?」
「うん、いいよ」
なるほど、今の質問にはそういう意図があったのか。
少なからず、私が楽しくなるようなことをしたいと思ってくれたわけだ。相変わらず彼は優しくて、お人好しで、……少し申し訳なくなった。
振り払うように、会話を続ける。
「文鴦殿、行きたいところある?」
「行きたいところ、……そうだな、名前殿が教えてくれた料理屋に、案内して貰えないだろうか」
「わかった」
少し悩んだ様子だったけれど、文鴦殿はすぐに答えを出した。あんな他愛も無い話をしっかり聞いてくれていたようで、律儀な人である。
お互い時間の取れる日時を話し合って決めると、文鴦殿は鍛錬を再開すると言った。
次会えるのは、約束の日だろうか、明日のこの場所でだろうか。
別れを告げて踵を返す彼の姿を見ながら、私は未だ木陰に座っていた。