02

 司馬師殿が亡くなって暫くした頃、廊下で司馬昭殿に会った。執務に使うらしい物を持っていたので、部屋に戻るところだと察しがついた。
 彼に思うことは沢山あって、でも話して良いのか分からずにいた私に、司馬昭殿は自分の荷物を指し示して言った。

「最近、部屋の中がこういうので埋まっていくんだ。まめに片付けないと大変でな」

 脳に矢を射られたようだった。
 私が以前転がり込んだ彼の部屋は、物がほんとうに少ないところだった。「俺はすぐ失くしちまうから、最初から置いてない」と彼は肩を竦めていた。

「お前、すぐ部屋散らかすだろ。たまには少しくらい片付けろよ」

 司馬昭殿と別れた後も私に突き刺さった矢はどんどん血を失わせ、私は工房に着いてすぐ、物で足の踏み場もなくなった床に倒れ込んだ。


「名前殿……。専属の技師の方がいらっしゃると伺ったことがあります。もしや、あなたのことでは?」
「はい、魏軍の方々にはお世話になっております」

 文鴦殿の中で、既にあった知識と私の自己紹介が繋がったらしい。なるほど、と呟かれた。
 私が泣いていた数日前、落ち着くまで側に居てくれた彼とは、また同じ場所で鉢合わせした。今回はただの息抜きで来ていた私にかけられた彼の声は、なんだか安心しているようにも聞こえた。
 とはいえ私は泣く姿を見せたあとでの再会は気が引けたのだけれど、文鴦殿は気にしていないようで、私も休憩にしよう、とあの時のように私の隣に座ったのだった。私も元々彼のことは気になっていたからお礼と自己紹介をさせて貰って、今に至る。

「司馬昭殿は、同い年だから仲良くすると良い、とも仰られていました」
「……そうなんですか、司馬昭殿が」

 文鴦殿の言葉に、心臓が変な音を立てた。……司馬昭殿が。文鴦殿に、私と仲良く、と言ったのか。
 奥底からまた泥濘が湧き出てきて、それを振り払うように笑う。

「じゃあ、気軽に話させて貰おうかな」

 別に彼と関わりたくないわけではない。不必要な感情には蓋をした。

「あなたは……」

 すると文鴦殿が口籠もる。何を言いあぐねているのか、その先を待った。彼は真面目なたちみたいだし、気安く話すのは駄目だっただろうか。
 しかし文鴦殿はその先を声にするのをやめたようで、代わりに「技師とは、一体どのようなことを?」と尋ねられる。私のことを教えられたとは言っても、あまり詳しくは聞いていないのだろう。……とはいえ。

「君、司馬昭殿にはどこまで教えていただいた?」

 とりあえず私も問い返してみる。

「複雑な機械を武器としている将もおられる、その武器の整備をしていると」
「うん、それが全てってところだよ。まあ、普段は文官だけどね」

 文鴦殿の言葉に頷いた。私の職務は、本当にその一言二言だけで言い終わってしまう。 ……夏侯覇殿と郭淮殿の居ない今、その仕事内容もトウ艾殿の螺旋槍ぐらいしかないけれど。

「しかし、あの武器は私たちの想像もつかない高い技術力で造られている。誰の目にも明らかだ。名前は素晴らしい腕を持っているのだな」
「……はは、ありがとう。でも私は先代の後を継いだだけだよ」
「だとしても、彼らは今、あなたを信用して仕事を任せているのだ。名前殿の技術力に並び立つものは居ないとさえ聞いた。誇って良いと思う」

 その褒め言葉は純粋だ。こういう真っ直ぐな音には不慣れだから、困る。私はそこまで言ってもらえるような人間じゃないから尚更だ。今の私はただの無能だから。
 居た堪れない気持ちになりながらも、文鴦殿の肩を見ながら、「こういう系統の人か」と頭に入れた。ざあ、と風が吹く。揺れた木がざわざわ騒いだ。

「……それにしても、ここは良い場所だな。よく来るのか?」
「うん。文鴦殿はあの時が初めて?」
「ああ。通りすがることは何度か有ったのだが、この木陰まで来るのは初めてだ」
「それは良かった」

 自分の好きな物のことを同じように言ってもらえるのは良いことだと思う。笑みを零した。

「休憩するなら、ここに来ると良いよ。あんまり人は来ないから、落ち着きたい時とかに丁度良いんだ」

 言うと、文鴦殿は少し黙る。あ、さっきのは社交辞令だっただろうか。……そういうことは言わないような人だと判断してしまったのは早合点だったのかもしれない。
 言葉を見つけられずにいると、文鴦殿が私より先に静寂を破る。

「来ても良いのか?」
「ん、うん。良いよ、別に私だけの場所じゃないから。人が来ないとは言っても、……前は司馬昭殿もよく来てたし」
「司馬昭殿が?」

 驚く声に、多分もう来ないだろうけどね、を飲み込んで、最近は忙しくてあんまり来ないんだけどね、を代わりに出した。
 ──あの方が、司馬師殿が亡くなられてから、司馬昭殿は忙しい。「めんどくせ」を封印して、この場所から、逃げ場所から背を向けて、前に進むことを選んだからだ。
 だから、今、私の隣には誰も居ない。

「名前殿がここに来る日は決まっているのだろうか」

 文鴦殿の声に引き戻される。またわざわざ暗いことを考えていた。

「決まってないよ、来たい時に来てる。……今後は頻繁になるかもしれないけど」
「それなら、またここに来ればあなたと話すことができるかもしれないのだな」
「……うん」

 来てくれるんだ。
 文鴦殿がさっき考えていたのは、どう断ろうとかそういうことじゃなかったらしい。
 喜ばしいことだろう。ここに文鴦殿が来るようになったって何ら問題はない。またひとりになりたい時があったとしても、別の場所に居れば良いだけの話だ。彼がここに居て心地良かったり落ち着いたりするのであれば、いくらでも来たら良い。
 ……それにしても文鴦殿の口振りは、「あなたと話したいからここに来る」というものにも聞こえた気がする。司馬昭殿に仲良くすることを勧められていたらしいとはいえ、本当に懇意にしてくれるのかもしれない。どれだけ優しい人なんだろう。

「機会があったら、よろしくね」

 笑んでおく。
 私自身、彼ともう少し話してみたい、と思い始めていた。彼のように優しい人とは一緒に居たくなる。だって、優しい人は、優しいから。

さようなら無実の私

title by 金星 161031