01

 自分がどうしようもない人間であることを、私は今更になって知った。


 外から兵卒たちの噂話が聞こえてくる。賞賛。侮蔑。同情。方向性の違うそれらは、全て同じ人物について語られているのだった。

「……文鴦殿、会ってみたいなあ」

 この暗い部屋には自分以外の誰も居ないのに、話しかけるみたいに呟く。もしもあの方がご存命であったなら、教え、……てはくれなかったか。きっと私の考えていることを見抜いて、「気になるのなら実際に会いに行けば良い」とおっしゃったのだろう。あの方は、よく私の臆病さを指摘されていた。
 もうとっくのとうに居ない人のことを考えたところで、どうしようもないのに。そうは思えど、一旦暗い思考をしだすと止まらない。
 手にしていただけで動かしもしなかった工具へ目をやる。考えに耽るばかりで、仕事なんてちっともやっていなかった。このままではいけないな、とは分かる。
 最近この工房に篭りっきりのまま、何もせず、ほとんど陽光を浴びていない。動く気力も無い。でも、たまには無理にでも外に出た方が良い気もする。人と接する気力も無いから、いつもの穴場に行かせてもらおう。腰を上げた。


 目的の場所には誰もいない。
 見慣れた地面の上で、木漏れ日と葉の影が水面のように揺らめいた。その主である大木の木陰は特等席である。よく利用しているこの憩いの場は城のはずれにあるので、勿体無いとも便利だとも思う。たまに迷い込んでくる人も居るけれど、誰も留まろうとはしてこなかった。
 ひとり、腰を落ち着けて息を吐く。途端にぽろっと涙が落ちて、今更自分が目を潤ませていたことに気が付いた。するとまるで切り傷に気付いた瞬間痛みが広がってくるのと同じように、涙の量が増していく。愚かな話である。自分がどうして泣いているのかも分からないのに。自嘲して目を拭う。思っていた以上になかなか止まらなくて、もっと笑った。

「あの」
「……え」

 声がした、と認識するのが遅れて、顔を上げるのも遅れる。その拍子で涙をまたひとつ落とした私の目に、珍客の姿が映った。
 いくらか離れていても大柄だと分かる体躯。鍛錬用らしき軽い装い。鉄擲槍。
 その少ない情報でも、特徴的だから判断できる。間違いない。私が先刻頭に浮かべていた「文鴦殿」、その人だった。

「これは、初めまして。文鴦殿」
「あ、ええ、初めまして。私のことをご存知なのですか」
「あは、はい」

 オロオロする文鴦殿に、目を擦って笑ってみせる。戸惑うようにしていた彼は此方に早足で向かってきて、近付くほどに彼の立派な背丈が分かった。恐らく見上げなければ表情を知ることが出来ないだろうその高身長は、トウ艾殿と話すときを思い出させる。

「……どこか痛いところでも?」
「いいえ、大丈夫です。大したことは、ありません」

 私のすぐ前まで来た文鴦殿のその問いは、心配そうな色に満ちていた。以前聞いたことのある、「優しいお方」という兵士の評価は本当らしい。この場所は見つけにくいだけで、鍛錬場からさほど遠くはない。だから通りかかったのだろうけれど、私が泣いているのを気にしてわざわざ来てくれたわけだ。
 彼は私の答えに納得がいかないようで(まだ泣きながらなのだから仕方ないかもしれない)、口を噤んでそこに立っている。
 参ったな、今は人と会話する元気は無いんだってば。
 極彩色の塗料が混ざり混ざって黒くなっていく。こんな風にめそめそしている弱っちい女、放っておけば良いだろうに。文鴦殿は有ろう事か、私の隣に座った。

「そのようにして泣いている方を、見過ごすことは出来ません」
「……変わり者ですね」

 どうやら自分は礼のひとつも言えないほどの状態らしい。愛想笑いはできたけど、しなければ良かったかもしれない。腹を立ててどこかに行ってくれた方が今は好都合だった。
 しかし私の皮肉にも文鴦殿は何も言わず、ただ隣に座っている。目元を擦る合間に彼を横目で見ると、そわそわしているのが分かった。隣に座ったのは良いものの、何をすればと悩んでいるということだろうか。心配されている側がこんなことを言うのもなんだけれど、ほんのちょっとだけ、おかしい。

「目を擦っては、腫れてしまいます」
「……はい」

 それは何を言うか迷ってとりあえず発した言葉なのだろう、戸惑いがちの音で諌められた。
 ──文鴦殿が大勢の兵卒たちに人気があるのも分かる。
 ──彼は、なんて優しい人なのだろう。
 そう思った途端に何やら涙が勢いを増して、袖口で目元を抑える。喉の奥で混乱する空気の塊が痛い。
 隣の彼は相変わらずどう対応すべきか困っているらしく、腕だの体だのがもぞりもぞりと動いていた。私がさっきよりも泣いているからか、文鴦殿もさっきより大きな振り幅でおろおろしている。やっぱり、これは多分笑うところだ。

「ふ、ふふ」

 私が笑い声を零したのを聞いて、文鴦殿はぴたりと動きを止める。私の様子を窺っているようだ。可笑しい、と一度笑ってしまえば涙よりも笑いが出てきて、今度はそっちが止まらなくなっている。我ながら忙しい。
 どうなさいました、と問いかける文鴦殿に、私は笑う合間で「なんだか元気が出ました」と言った。

泣くのに世界は辛すぎるだけ

title by 金星 161030