090
083のつづき
──冥府へヨゥコソ!
陰鬱な世界に見合わぬ台詞が、低く響いた。そしてそれは、己が幼少から慣れ親しんだものとは違う言語。見知らぬ土地に来てから耳にするようになった──何故か意味を理解できるし話すこともできる──、「名前」にとっての、異国の言葉だった。
──つまるところ、「死ねば苦痛から解放される」なんていうのは幻想なのだ。
思い知った。
「名前」という存在が死に、「ミーシャ」として肉体の死を迎えてなお、自分の在りたい場所にはかえれなかった。
「……はは……」
冥府とやらで出迎えてくれた男の見上げるほどの長身に、しかし、そうやって視線を動かすことはできなかった。俯いた顔を持ち上げる気力は無かった。渇いた笑い声と、歪む口元に、己が傷付いていると知る。「ミーシャ」も、辛いときこそよく笑っていた。
目の前の気配が身動ぐ。暗色のローブが、地面と設置する面積を増やしていく。ゆったりしたその動きは、男が身体を折り曲げるがゆえのものだった。
それでも未だ見下すような高さで、そっと顔を覗き込まれる。
「迷ィ仔ヨ」
傷口を抉る呼称に何を言うよりも先、薄い安堵と落胆が去来する。
やさしいこえだった。
低く穏やかで、まるで子供を慰めるみたいだった。
「迷子」と称した男にとって、自分は「ミーシャ」ではなかった。「私」を「名前」と認識している。久しい感覚だ。
しかし、なにを今更、と思った。今まで他に出会った誰からも、私は「ミーシャ」であることを望まれていた。それは世界全てが私に望んでいるのと同義だった。奴隷解放軍を飛び出せば違ったのだとしても、事実、そうはできなかった。精神的にも、肉体的にも、私は弱かった。荒廃した世界では、無茶だった。そうして、「名前」を擦り減らした。
だから、なのに、何を今更。せめて、もっと早ければ。この男と出会うのが早ければ。私のこころだけは、少しでも救われたかもしれなかった、と。
意味の無いたらればだ。そもそもにおいて、ここは冥府らしいのだから。死後の世界に住まうのだろうこの男には、死ぬまで会えなかった。……結局、やっぱり。あの世界では。
するり、衣擦れの音がする。
「
「──?」
意味の取れぬ言葉に、自然と視線だけが上がる。生気の無い、青白い頬が、周辺視野に入ってきた。
男の言ったことを反芻して、ああ、と察する。概念の擬人化、崇拝、アニミズムといった単語が覆い被さって、遠い過去、湿った草の匂いを思い出した。
「
ローブが大きく動く。私の身体を包もうとしているのだと気付いて、しかし、危機感に後退ることもできなかった。
この
「タトエ、迷ィ仔デァロウト。
──
吐く息が、震えた。同じように戦慄いた肩を、ゆっくりとローブで包まれる。その上等そうな布も、布越しに伝わる男の体温も、ひどく冷たい。
──これが、「死」。
なんだか涙がぽろりと落ちて、それを骨と皮ばかりの指が優しく掬う。
再び大きく、水っぽい息を吐いた。
やっぱり、と、違った、が、ぐちゃぐちゃになって押し寄せる。生きているうちの世界では無理だったけれど、もっと早くこの男に出会えていればよかったけれど、それでも、「死ねば苦痛から解放される」のは、半分くらいは正しい気がした。
涙と共に、痛みが濁流のように溢れ落ちる。
その間も、死は、ずっと私の傍に在ってくれた。
そうして私を宥めていた男はふと、何かを思い出したように、
「カレーハ好キカ」
「カレー存在するんですかここ!?」