083
怒涛のはじまりを、全て覚えているわけではない。
気付けば立ち尽くしていた荒野、ぼろぼろの荷馬車と下品に笑う男、手足を削る縄の痛み、すえたにおい、馬の駆けるのに合わせて揺れる木の床、金属音、悲鳴。
紫水晶の瞳。
「……ミーシャ?」
──名前という人間の死。
アメティストスに救われたあの日から、私は「ミーシャ」になった。
「うかない顔だな、閣下が心配するぜ」
ふと声をかけてきたのは、水差しを持った男だった。アメティストスの率いる元奴隷たち(「奴隷解放軍」と私は呼んでいる)の中でも、特に私を気にかけてくれる人だ。
差し出された水を受け取って、唇を濡らす。
アメティストスは、「ミーシャ」たる私に優しい。大事にしている。……依存している。
その発露のひとつとして、彼は私が水辺に近づくことを恐れる。近づくことをというより、水面に身体を映すことを、かもしれない。とかく水に近付くな、近付けさせるな、と私や皆に厳命するものだから、飲み水だの身体を払拭する水だのは、アメティストスの目の届かぬときに、世話焼きな人が持ってきてくれるのだった。ちょうど、目の前の男のような。
「さっさと飲んで、しゃきっとしな。閣下が見たら大暴れだ」
「……そうですね」
せっつかれながらも、喉を潤すスピードは変わらない。
飲食をすることは、つらい。
「生きるため」の行為だから。
それでも、私の体調が、アメティストスの機嫌に関わることは知っている。「ミーシャを泣かせたのは誰だ」と怒鳴る声も、「大丈夫だよ、ミーシャ。悪い奴は全部懲らしめてやるから」と囁く声も、もう二度と聞きたくなかった。「あいつは閣下をたぶらかし、我々の分断を狙っているのだ」と嘯く声も、もちろん。
窮屈だ。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
見知らぬ男に、見知らぬ名前で呼ばれて、見知らぬ「双子の妹」として扱われる。思い出との齟齬は、「離れ離れになっている間に精神を病み、記憶を混濁させている」と憐れまれる。私は私でしかないはずなのに、「閣下の心の慰めになるから」と看過される。
アメティストスのことが憎いかと言われれば、憎いだけではない。彼が「ミーシャ」と語り合おうとする過去の話は、私からしても同情に値する。免罪符にさせるつもりは無いけれど、彼の狂気に納得をしてしまう。……それでいいのかと、自分自身の胸ぐらを掴みたくなるような、衝動もある。
「……なんで」
「ん?」
だから、胸ぐらを掴めなかった手を、他者に伸ばせぬものかと思ってしまった。
「なんで、看過するんですか」
その手が、同じく男の首に向かったのか、あるいは違ったのかは、知りたくなかった。ただ、甘んじて受け入れているかのような己に、世界に、訴えなければいけない気がした。
そうでもなければ、「私」の意思はどこに。
「都合良く扱われるだけのこれが、『奴隷』と何がちがうんですか」
「『妹君』。異なことを仰いますな」
固い声。氷みたい、触れるだけで痺れそうな。
思わず合わせた目で、あっというまに竦んだ。
「『妹君』も奴隷でいらっしゃったのでしょう。
それなら、奴隷の生活が、今と比べるべくもないことを、理解しているはずだ」
「────」
殺された。
今、心臓に突き刺さった言葉で、「私」は息絶えた。
死人には、何を答えることもできない。
「ミーシャ! そこに居たのか!」
「おや、アメティストス閣下」
取り落としそうだった水を、男がひょいと取って、後ろに隠す。急いて駆けてくる足音の方を向いた。
「──『エレフ』」
「ああ、ミーシャ。……顔色が悪い。おい」
「『エレフ』。『私』、ちょっと頭が痛かっただけなの。彼は、心配して傍に居てくれただけよ」
「頭が?」
「エレフ」は小さな歩幅でこちらへ歩み寄りつつ、水差しを持った男を一度じろりと見た。男が首を横に振り、席を外す。
心配そうに覗き込んでくる紫色。大きな手に、こめかみのあたりをそっと包み込まれた。まるで壊れ物を触るみたい、使い込まれた比喩が、ぴったりと嵌まる。
その手へ、同じものを同じように重ねた。「エレフ」が目を瞬かせる。固くてぼろぼろの手のひらに、頬を寄せた。
「ありがとう、『エレフ』が居るからもう大丈夫」
「……、『ミーシャ』、なんか……」
「うん? どうしたの」
「……なんだろう、……昔の『ミーシャ』みたいだ」
どこか拙く、「兄さん」は言った。
「エレフったら、おかしなことを言うのね」
私私は笑った。