076

 ごめんね、と返すと、その子は泣いた。

「きみの気持ちは嬉しいよ」

 優しいお医者さんの顔で、フィガロはさらりと言う。
 嘘をつく。
 嘘をついたって良いと思ったから。

「……ほんとうに、だめ、ですか」
「……うん。ごめんね」

 申し訳なさそうな表情を顔面にくっつけて、フィガロは言う。その子はやっぱり、わっと泣いた。
 南の国の診療所に、何もなくとも通い続けてきた人間、名前。自分を慕っているらしい、とフィガロが悟るのはすぐだった。
 その見立ては間違っておらず、今、こうして、「あなたのことが好きだからお付き合いしてほしい」という旨を告げられたわけである。
 フィガロは、それを断った。
 断るのは何もおかしくないだろう、と思った。

「好きなんです、フィガロ先生……」
「……うん」

 断られたというのに、その子は未練たらたら。立ち去ろうとせず──受け入れてほしいというよりは、訴えを聞いてほしいのか──、フィガロに好意を伝え続けた。
 笑顔の裏で、フィガロは嘆息する。
 俺よりちょっとしか生きていない、人間の、子供のくせに。
 自身がもともと北の魔法使いであることも、遥かに長い年月を生きてきたことも、様々に偽ってきたことも、全てフィガロ自らの行為だ。
 だから、ただの人間である名前が知る由も無いのは当然だ。名前の目には、優しい魔法使いの姿しか映っていないだろう。
 そればかりを、ずっと見つめて来たのだろう。

「好きなんです……」

 ──けれど、今だけだ。
 今だけなのだ。
 名前は涙のため、フィガロが貸したハンカチを目に抑え付けている。フィガロは、嘲笑に顔を歪めた。それは心の底からの嘲りかもしれなかったし、自分へのものかもしれなかったし、人間と魔法使いの相違に対するものかもしれなかったし、八つ当たりかもしれなかった。
 人間の生は、魔法使いにとって、一瞬だ。
 あれ、あの人間どうしたのかな、と思っている間に、ずいぶん老いたり、死んだりする。
 だから、例えば。
 フィガロへの恋が実らなかった後の名前が、新しい恋を見つけるのも、一瞬のことなのだ。

「……すき、です……」

 その好きって、どのくらい。
 フィガロは口にしなかった。人間と魔法使いが仲良く暮らす国のために、そんなものは異物だった。心中で尋ねるだけだった。
 それに、聞かずとも、フィガロには見えるものがあった。
 この子の言う「好き」は、自分の知る愛には程遠いと、確信があった。
 今でも、脳裏に焼き付いた姿がある。ほんの短い間、本当に、人間の持つ一瞬のような間、弟子としていた魔法使いのこと。
 ぐちゃぐちゃの人生を、変えてくれる唯一の存在だったはずのこと。
 けれど、自分はその元を離れざるを得なかったこと。
 それから、この南の国での生活のこと。
 ──短命の人間に、何ができる。
 ──その愛は、ちっとも愛に見えなんかしないよ。
 
「……ごめんね」

 今まで「うん」「うん」と頷いてやった「好きです」に、「ごめんね」を返す。
 そろそろ潮時だと思った。それは、向こうも同じだったらしく、「すみません」と謝って、診療所を出て行った。
 その後ろ姿を途中まで見送り、フィガロは椅子に深く腰掛ける。
 ──さて、賭けようか。
 俺は、あの子が違う誰かを追いかけるようになるまでが「一瞬」である方に、人生の深みを知る魔法使いとしての経験を。



200731 約30の嘘