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※夢主設定匂わせ


「岩王帝君が天に昇られたことについて、なんですけど」

 鍾離は目を見開き、数度またたいた。
 岩王帝君が死んで、しばらくが経った。鍾離はついに手にした「凡人」の生活を、不慣れながらも愉しんでいる。
 名前という存在と出会ったのも、凡人となってからのことだ。通りかかった食堂でたまたま相席して、名前の身に纏う不思議な雰囲気に気を惹かれ、いつしか「茶飲み友達」と呼ぶべき存在になっていた。
 名前は絵に描いたような凡人で、商人の家の子ではあるが、特別に裕福でも、貧乏でもなく、テーブルを共にするのはいつも万民堂だった。鍾離が「奢り」をするからと瑠璃亭や新月亭を提案しても、名前は顔をさっと青くさせ、それはそれは全力投球で断るのだった。その様は、商人の血筋らしい貸し借りや契約を気にするようなものではなく、「恐れ多い」とした方が的確──岩神に対する態度としてよく見知っているので、鍾離はこの表現に自信がある──で、やはり、名前は不思議な存在だと思わされた。自分の目の前に居るのがかつて岩王帝君であった凡人だと知っているはずがないのに、鍾離をまるでたっとい存在であるかのように扱うのだから。
 この敬意と、「茶飲み友達」らしい親しみの入り交じった接し方は、本来神である鍾離にとっては、妙に居心地が良くもある。
 今日も約束通り、名前と鍾離は、日の沈みかけた頃に落ち合った。万民堂のテーブルに着き、輝き出す月を見上げながら、名前がふと声を零した。先の言葉だった。
 「岩王帝君の死について」。
 名前は今まで、岩王帝君の死そのものを自ら触れることはなかった。鍾離が尋ねてみたり、璃月の動向を話すに避けられないとき触れたりしたぐらいで、だから鍾離は、名前は岩王帝君の死にはさっぱりした考えでいるものだと考えていた。
 しかし、今、名前の顔に浮かんでいるのは、──「憂い」である。

「こんな理論があるんですよ。
 大きな……このテイワットに広がるぐらいで足りるのかな? とにかく大きな紙を、100回折り畳む。
 すると、その高さは月まで届く」
「……ふむ。初耳だな」
「でしょうね」

 名前は笑った。鍾離は些か眉根を寄せる。長く生きた分の知識が豊富であると自負している──草神には劣るが──のを、ぞんざいに扱われた気がした。
 しかし、それを不服だと訴えんとする気は、瞬時に霧散してしまった。名前の瞳に、寂寥か望郷、そのような色が揺らめくのを見つけてしまったからだった。
 その理由が知りたくて、鍾離は視線で続きを促す。名前はまた寂しげな笑みを浮かべてから、

「コロンブスの卵みたいな話ですよ」
「……? それも初耳だ。なんだ、スメールのどこぞの学派が、新しい理論でも打ち立てたのか?」
「いいえ。……いいえ、と否定はしますけれど、どこの言葉なのかは秘密です」
「互いに意味を共有できない言葉を用いるのは、コミュニケーションにおいて悪手ではないだろうか」
「そうですね。ですから、これは、ええ。
 私が自己満足で、使いたくて使った言葉なだけですね」

 おっと、話が逸れました。
 感情を隠すように、名前はおどけて言った。茶の入った椀を片手で揺らし、月光を反射する液体を口に含む。

「この理論。
 大きな紙を用意するコスト、折り畳むごとに必要になっていく折り畳むための力、高くなる紙に登る苦労。
 色々想像はできますけど、『紙を折れば良い』と一言で表せるせいで、どうにも簡単そうに感じられてしまうんですよね」
「一理あるな。人は、名や顔を知るだけのものごとを、全て知っているかのように錯覚してしまうことがある」

 鍾離が頷くと、名前も頷いて返す。
 その様子に、鍾離が問いかける。「何故そのような話を?」
 名前は、空になった椀を置いた。

「……遠いな、と。
 そう思っただけです」

 名前は、もう月を見てはいなかった。
 天空にある島を、見上げることはなかった。
 ただ、まっすぐ、目の前の鍾離の姿を、瞳に映していたのだった。



230116 約30の嘘