025

 逃避行と言えば、聞こえは良かった。
 その実、彼らの呼び名は、「脱走兵」や「裏切り者」、縄につくことを目された、「指名手配犯」だった。

「……ここまで来れば、安全だろ」
「…………う、ん」

 豊前江が、横抱きにしていた名前を下ろす。久方ぶりに足を地面につけることができたというのに、彼/彼女/名前の表情は、安堵とはかけ離れていた。その背を、足首を、首筋を、死の恐怖が捕まえていた。

「……でーじょーぶだって。俺はまだまだ走れるし、追っ手も──加減する余裕があるかどうかわかんねーけど、ま、なんとかなる」
「……うん」

 泥だらけの戦装束から汚れを払い落としながら、豊前江は言う。
 この追いかけっこに降参したところで、何か得るものは無いのだ。
 政府の高官の子供であったのが、名前の様々な不幸の要因であり、唯一の不幸であった。親は、名前を、政治の道具としか思っていなかった。故に、婚姻も、そうであった。見知らぬ誰かと契りを結ぶことは、名前とその親にとって確定事項だった。
 しかし、箔付けのために始めさせられた「審神者」という職の中で、名前は、豊前江という人ならざるものと出会ってしまった。惹かれ合ってしまった。想わぬ誰かと添い遂げるぐらいなら、共に地獄に落ちたいと、思ってしまうほどに。
 その想いを泣きながら告白したときの豊前江の反応は、さっぱりしたものだった。それでいて、真剣味は奥底に宿していた。彼は言った。

「じゃあ、一緒に逃げっか」

 その芯の強さと信じる心から来る、楽観にも似た未来の見据え方が、名前は何よりも好きだった。縛られて生きてきた自分には到底持てなかった広く遠い視線が、きらきらと輝いて見えた。
 だから、豊前江の手を取った。逃げ出すことに関して、本丸の他の刀剣男士たちには申し訳なく、置き手紙だけは残して。
 政府の、親の仕向けた追っ手から逃げる日々が始まった。
 豊前江の見た未来を、自由に開けた未来を、共に駆ける日々が──始まって少しして、輝かしく見えたはずのそれは、混沌の闇に飲まれていった。
 自由とは、何もない荒野を彷徨い歩くことだと、自由の無かった名前は、今になって初めて知った。
 どの道を進めば明るいのか、どの道を進んでしまうと穴に落ちるのか、名前には何一つわからなかった。それこそが、名前の憧れた「自由」だった。
 そんなものだと知っていたら、こんな恐ろしいものは手に入れようとしなかったのに。
 名前は何度も悔いた。
 もう遅かった。

「名前」
「なに?」
「さっき看板があったんだけど、もう少し行くと海らしい。見に行かねーか」

 豊前江は屈託無く笑う。いつも通りの笑い方に、名前は胸の中にどろついたものが溜まるのを感じた。
 彼だってわかっているはずだ。名前が最早、この現実のすべてに絶望してしまっていることを。
 しかし、豊前江は何も言わない。ただ、変わらず、名前を引き連れて混沌の闇を掻き分けるだけだ。

「…………、いいよ」
「よし。そんじゃー、ちっと休憩したら出発するか」

 その手に従うことは、果たして自由だろうか。かつての通り、誰かの言いなりになるだけの不自由な生を送っているだけではないのだろうか。けれど、自分で、自分の足だけで、あの暗雲を進むことができるようには、到底思うことができなかった。
 名前が名前の思う自由であったのは、きっと、豊前江の手を取った、自由を手に入れたと思った、あの一瞬だけだった。
 もう引き返せない。
 欲しかったものは、もうどこにも無い。
 どの道が一番マシか、それを考えた結果、豊前江の隣に居ることを選ぶ他に無かった。



200710 約30の嘘