直江と私、それぞれの生き方の相容れなさときたら、すごいものだと思う。
そんな今更すぎることを、直江の本棚を見て思った。
直江は読書家なので、家には沢山の本がある。私も本は好きだし、かなり大まかに言えば好みのジャンルが似ているので、よく本を貸し借りする。だが、やっぱり、好き嫌いの分かれるところは分かれるのだ。思わず手にとってしまった哲学書を眺めて、再び本棚に戻す。
この本は、直江から借りるまでもなく、以前に図書館で読んだことがあった。性に合わない思想だったのでそれっきりだったが、あまりにも合わなさすぎて衝撃だったから、タイトルを見れば内容がすぐ思い出せてしまう。
まあ、なんというか、素晴らしいことをしよう、世界に想いを遺そう、後世の人々に希望を与えよう、みたいな内容だ。あと義というワードが頻出する文章だったと思う。そうそう、だから余計に覚えている。
批判するつもりは無いが、私の生き方とは合わない本だ。反面、直江はものすごく好きそうだと思うし、実際、読み込まれているのがよく分かる擦り切れ方をしていた。
「気になる本はあったか?」
「もう少し悩ませろ」
ひょっこり顔を出してきた直江に言い返して、吟味を続ける。読書範囲を広げてみるか、好きだけど難しい本を読み直してみるか。どちらかと言えば、気分は後者に寄っている。その気持ちに従って手を伸ばすと、「またそれか」と言われた。
「言い方が難解でも、言ってることが自分に馴染みやすいと、噛み砕くの楽しいんだよ。
……まあ、お前はこっちの方が好きそうだけどな。まだ。比較的」
言いつつ、読みたかった本の隣、別の人間が書いたものを指さす。これの著者は、「また」の思想に対して反感を覚え、自分なりの考えを突き詰めていくことになった人物だ。個人的に、タイトルこそ物々しいが、中身は一周回ってポジティブな印象さえ受ける本だと思う。
直江は隣で、「比較的にはな」と頷いた。ちゃんと好きだと言い切れない感じも含めて予想通りである。ポジティブとはいえ人の孤独さが存分に窺える思想なので、他者との繋がりを愛する直江向きではない。
そして、私も好きだと言い切れない。私がこの本をポジティブだと表現するのは、自分の求める自分を目指そうという方向性を感じるからだ。苦しみながらも、立ち止まり続けず、目を逸らし続けず、と。私には難しい。私は、絶望してしまう。してしまった。だから、この本には胸をちくちく刺される。
読んだ時の痛みを思い出して、つい無言になった。しかし、直江がちょうどそのとき、
「そういえば、『前』のとき、お前の言葉で、お前の考えを聞くことはあまり無かったな」
「……まあ、そう言われればそうだな。触りだけ話したぐらいだし。……でも、『前』の思想と『今』の私は結構違うぞ。もう戦国の世じゃないもんだから」
「そうでもないだろう」
断言だった。
肩を落としそうになって、本棚の棚板に手を置く。こういう図星の突き方をしてくるということは、計画的犯行を意味する。きっかけは無理矢理じみていても良いから、聞きたくて仕方なかった、と。
直江が隣に立っているにも関わらず、どうにか顔を背けてしまえないか、方策を考えてしまう。もちろんそれは難しいので、直江からの視線が突き刺さる頬が痛かった。
「お前は最近、『前』に引きずられすぎだ」
「……」
「私たちは油断するとそうなりやすい。特に精神が弱っていると、その傾向が強くなるように思う。
……名前、お前も分かっているだろう。
私と恋仲になってから、揺らぐことが多い」
「それで」
黙りこくる私に直江は言いつのった。そして今度は私が、食い気味に。動揺する気配。
「それで、めんどくさいから、わかれ、てばなそうと」
「名前、なんてことを」
「う、あ、違う、違う……、ごめん……」
自分の愚かさを露呈したことに気付いて、手が震えた。これはまずすぎる。面倒臭い人間だろうと言ってしまうことは、それ自体が一番面倒臭い。だって、直江がそういう奴じゃないのは解っているんだから。少なからずショックを受けたような彼の声が証明だ。
……直江を傷付けた。
思った瞬間、視界が歪んだ。力の抜けた膝が落ちそうになって、直江の腕に支えられた。支えなくったって、良いのに。でも、支えてくれるってことは、まだほんとうに見放されていないのかな。相反する思考がきもちわるい。これだから私はだめなのだ。
直江はふらつく私の腰を抱きこんで、その場に座り込む。自然と直江の膝へ乗り上げた私は、迷って、迷ったものの、直江に寄り掛かった。安心を乗せた吐息が聞こえたあたり、これは正解らしい。じゃあ、この動作を降参の証にしよう。膝の上で横抱きにされたまま、もっときちんと座り直す。カーペットの毛足が踵を掠めた。
「……私の、『世界の真理』って概念の話はしたよな」
「ああ。義とは違う、のだったな」
「……うん」
ぽつりと話しだしてみると、直江は首肯する。聞き分けが良い、という言い方も変だが、落ち着いた様子で聞きに徹している彼に、年月を感じた。具体的に言うと、彼には己の義を見失ってしまった記憶があるのだな、と思った。……気持ちが暗くなるので、思考の端に少し避けておこう。
気を紛らわすために、直江の手を触る。私のよりもあたたかいのは、元来彼の体温が高いからか、私の血の気が引いているのか。直江が労わるように指を絡めてきたということは、そういうことだろうが。
もう、私なんかのくせに迷惑をかけっぱなしだ。そう思う。
でも、そう考えてしまうことが、現状を生み出した原因であるとも、分かる。
政宗にも言ったはずなのにな。世界なんて関係ないんだよね、って。
自分で自分に呆れつつ、直江の手を握る。
「直江への『義』って能動的だと思う。あれ、善く生きようって話だろ。私のはあんなにじゃない。
人がみんな同じ方向を向こうとするんじゃなくて、そのままの人たちで、ばらばらの方向のまま、みんなが楽に生きていける世の中……。
んん、ジグソーパズルみたいなものだと思うと良いのかもしれない。誰かしらがいつか、形の違うピースを嵌めていって、パズルを完成させて、正しい絵……世界の真理を、描いてくれる、って思ってたんだ」
例えが下手だな。でも、これ以上うまい説明が見つからない。自分だけが知っている手触りを人に教えるのは困難だ。息を吐く。
暗い気持ちが更に増してくる理由は、それだけじゃない。
ここから先は、正直、あんまり言いたくないのだ。最近の精神の不安定さについて自己分析して、やっと気付いたことは、ずっと目を逸らして来たことだった。直視せざるを得なくなったそれは、あまりにも私の奥深くにあって、重い闇だけでできている。
彼を横目で見て、ぼそぼそ言ってみた。
「……直江さ、これ、私がどうしてそう考えるに至ったかが知りたいんだろ」
「そうだな、思想というのはルーツがある」
「やっぱり。……、でも、大体、少しぐらいは、解ってるんじゃないか」
自分で言うのは遠慮したかった。だから、ほんとうはあんまり確信が無かったけれど、直江が察してくれていることを祈った。こんな投げ出し方をしたって許してくれるのが直江だと知っていた。そのせいだ。
直江は渋い顔をして、口を横一文字にする。やがて言いにくそうにして、
「罪悪感」
息を呑んだ。
自分がどんな顔をしているか分からないけれど、なにか、表情筋が変な動きをしているのだけは理解できた。目の奥が熱くて、直江の肩に額を当てる。直江はそれを許さなかった。私の肩を押して優しく引き離すと、肩の代わりに額をくっつけた。私の表情を窺うつもりらしい。……この人は、ほんとうに優しいのだ。
それを実感した途端、身体がぶるっと震えた。恐れの震えだった。堰を切ったみたいに、言葉がぼろぼろ溢れ出す。
「正しい……。正しい流れが、この世にはあるんだ、と思った。
だって、おかしいんだ。わたしだけ生きてた。みんな死んだのに。わたしなんかだけ、生き残ったんだ。
そんなの、間違ったできごとに決まってる……」
私以外、家のみんなが死んだ。
その時のことは全然覚えていない、とかつて彼に言ったのは、半分正しくて半分正しくない。
覚えているけれど、覚えていないふりをしている。記憶に蓋をしている。そうじゃないと、耐えられなかった。
だって。
「謀反を、先導した家臣。
……私、あの人には、良くしてもらってた」
「……そうだったのか」
「最近、あの人の様子がおかしいって思ってた。その次の日、あれだ。
思うんだ、私が何か行動してたら、みんな死ななかったのかもって。
……覚えてる。覚えてるよ。私に伸ばされた、あの人の腕。覚えてるよ。たくさん殺したあとなのに、刀、持ってなかったんだ。それで、……きっと、ごめんって、言ってたんだ。
……私が、……私が何か……してたら……あの人も……みんなも……」
傲慢かもしれない。傲慢なものか。もしかしたら、は私を苦しめるけれど、同時に、小指の先だけの自己肯定感をくれる。簡単にちぎれるほどの命綱でも、私を繋ぎ止める唯一に成り得ている。
「……苦しんでる人を見ると、今は間違った世界なんだって思う。何もできなかった、何もできない、私なんかが生きてるのに、他の人が苦しんでるのは、みんなが死んだのは、間違ってることだと思う」
「……」
「……直江を、責めてるんじゃないって、先に言っておく。でもさ。
直江にやさしくされて、愛されて。
嬉しいのに、わからなくなるんだ。わたしがこんな、……こんな、だいじにされていいのかって。
だいじにされるようなわたしなのかって。
だいじにしてもらえるのは、ほんとうに嬉しいのに。その、だいじにしようっていうのが、ほんとのほんとだって思えば思うほど、怖くなる。わたし、そんなんじゃないのにって」
「名前……」
気遣わしげに名前を呼ばれて、手を繋いだまま、指先で甲を撫でられる。強く抱き寄せるとか、そういうアクションは起こされなかった。そうだ。それが良い。言葉を遮らないでいてくれるのが、いちばん、気が楽だ。
言えと促したのは直江だし、これは私の深い想いである。人に止められるのは、あまり気分が良くない。プライドだけは一丁前なのだから馬鹿らしいな。
「罪悪感を抱いたところで、断罪されたがったって、それが誰のためにもならないのは知ってるんだ。私のためでしかないんだ。もう終わったことなんだ。
でも、……、私は、やり直したかった、……あの日は間違いだったんだって、確信したかった。
これからの正しい道がわかって、一緒にこの世の本当の正しさが見つかれば、昔あったことが間違いだったって、分かると思ってたんだ。
それで、わたし宇の存在が間違いだったってわかれば、わかれば……」
「名前」
「わたし、まちがってうまれてきたんだって、いってほしかったんだ……」
「名前……」
そこでやっと、とうとう、抱き締められる。私も、もう何かを上手く言える気がしないから、従う。彼の首に腕を回して、涙で濡らす。
そんな風に縋り付きながら、ほんとうは、怖かった。
私のこんな無様な在り方が、直江に何を言われるのか、分かったもんじゃないからだ。
直江と私の生き方は相容れない。
直江に迷惑をかけているのは申し訳ないと思っているけれど、もし、やめろと言われても、言われてやめられるものではないのだ。たとえ無意味でも、悪影響しかないとしても、もしも簡単にやめられるものだったとしても。これは、もう、私の一部のようにも思っていた。
不毛だ。何の意味も無いどころか、苦しみばかりを生んでいる器官など、切り捨ててしまえば良い。
でも、でも──。
「名前」
「……うん」
「頑張ったな」
何を言われたのか、分からなかった。違う、すぐに分かった。分かったから、思考を停止している。涙を流している。
頭を撫でられるのが気持ち良すぎて、脳がびりびりする。
なんで、と言おうとした。やめた。もう聞かなくても分かってしまっている。そして、直接耳から聞けば、「そんなんじゃないのに」を発症してしまう。
……私、ほんとうに面倒臭い。直江はよく付き合ってられるな。今の話をした時点で、彼が私のいちばん深いところを認識した時点で、私に感じる面倒臭さは倍加しているだろうに。まさかゼロには何をかけてもゼロのままとかそういう話じゃないだろうな。なんとなくそういう話の気がするな。こいつ馬鹿だもんな。
ぐしゃぐしゃに泣いているのに、頭の片隅は冷静だ。……でも、それでいい。ものを考えられるときは、考えていたい。苦しみの源泉になるとしても、これが私だ。私は私を失えない。それに、直江が撫でて褒めて頑張ってるって私を肯定してくれるのなら、もっと、安心して考えていられる。
「問いかけたのが、『今』の私で良かった」
直江が呟く。どういう意味なのか察しがついて、首を横に振る。
「あんがい、うまいこといってたかも。『前』の、おまえでも」
「そう思うか?」
「ん。だって、おまえ、馬鹿だもん」
私なんかのことも善いやつだと思える、大切にしたいと思ってくれる、馬鹿みたいに純粋な人だもん。
泣きながらだと、そこまでは言えなかった。元々言う気もなかった。
直江は拗ねた声を漏らす。
「だが、傍に居てもらえることの心強さを教えてくれたのは、名前、お前でもあるのだぞ」
「景勝様は」
「景勝様もだが。それでも、お前が居てくれたことに変わりはあるまい」
「……そ」
直江の指先が、私の髪を掬う。いつくしむような動作に、胸の奥がぎゅうっとした。喜びと、罪悪感。慣れきった感覚だ。
でも、ふと罪悪感を見つめてみると、苦痛が減っていることに気付く。罪悪感を抱くことへの罪悪感が、ほぼほぼ無くなっているのだ。こんな私でごめん、が、随分と薄れている。
成程、と思った。通りで、直江は私を問い詰めたわけだ。確かにこちらの罪悪感は邪魔だった。直江の手が気持ち良すぎるのもこのせいか。何の障害も無く、私のいちばん深いところに優しくしてくれているのだから当然そうもなる。
……まずい。それを考えると、今後、直江の愛情でおかしくされてしまう気がする。直江がどこまで見越していたのか怖くなってくるな。
title by エナメル 180427