02
クー・フーリンは名前を変な女だと思っていると同時に、彼女をこの上なく愛している。ただのバイト終わりのナンパが出会いだった彼女にまさかここまで惚れ込むなど思ってもいなかった。縁というのは不思議なものだ。興味が無かった筈の二度目の生をこうも楽しめているのは彼女のおかげである、そう言っても過言では無い。
それほどまでに彼は彼女に執心で、だからこそ自分の正体も、聖杯戦争も、全て教えてしまった。彼女はもともと能天気な思考回路をしているとはいえあまりに何も疑わずに信じている様子に、いつか何処ぞの悪人に騙されるのではないかと心配になったのは記憶に新しい。
「ただいま」
「おかえりー!」
玄関の扉を開けると、奥から元気な声が聞こえてくる。ばたばたと近づく慌ただしい足音に、転ぶなよと声をかけた。部屋から飛び出してきた名前の表情は普段より明るく、お、と目を留める。
「クー、バイトお疲れ様!」
彼女の口から出る己の名前、帰宅の挨拶の口付けに頬を染める様に心が和む。忙しなくあちこちに視線を彷徨わせる彼女の髪を撫でた。
「機嫌良いな」
「あ! わかる? わかる?」
「喜んでるときのオマエは外に出やすい」
「マジでー」
一転、顔を輝かせた名前はきゃらきゃら笑うと彼の手を引く。それがどうにも子供っぽくて、彼はわざとらしく呆れた顔を作った。引かれるままに部屋に入ると彼女はテーブルへ駆けて行き、そこにあった本を取ってこれ見よがしに胸上で掲げた。見れば、タイトルに己の名前が混じっている。
「クーの神話の本! 全部読んだ!」
「なんだ、いつの間に買ってきたんだ?」
「クーがバイト行った後ー!」
「読むの速えな、今日はいつもより早く帰ってきたんだが」
天候が怪しく、クーはいつものバイト後のナンパも早々に切り上げていた。普段ならもっと遅くに帰ってくる。名前は褒められたのが嬉しかったのか得意げに胸を張りながら、大層大事なものであるかのように本を抱きしめて満面の笑みを浮かべた。と思えばバッと本を開いてページを探す。
「えっと、あのね、名前、名前が、……あ、あった! ……えっと、ク・ロイ王の話と、……それと、ブリクリウの話と、ね、好き!」
「あー、あれか」
懐かしいな。そう言う彼をソファに引っ張る彼女は興奮冷めやらぬ様子で、隣同士に座った後も足を幾度かばたつかせた。
「オレの昔の話が知りたきゃ、話の種は幾らでもあるんだが。本に載ってないのだってあるだろうしな」
「それも聞きたい! でも自分でも読んでみたかったんだ!」
「勉強熱心なこって」
「へへん」
再び張られた胸を見ながら、クーは我が恋人は身体の割りには子供っぽいよなあと心中で独りごちた。そう思われているとは知らない名前は、本のページをめくってはここが好き、ここがかっこいい、と繰り返す。彼もそれを聞いては、この時はこうだった、あいつがどうだった、などと語ってやった。書かれていないことを聞く度、彼女は好奇心に目を煌めかせる。
しかしそうしているうちに彼女が、そういえば、と手を叩いて切り出した。
「クーって女慣れしてるなあって思ってたから、やっぱり経験豊富だったんだなって納得した!」
名前はそう言ってけたけた笑う。彼もそうかと相槌を打ったが、彼女の反応は意外で、新鮮だった。2千年以上前の過去のことで、昔愛した女達が今は生きていないからなのかも知れないが、名前は嫉妬の情を欠片も見せない。加えて、妻のあるクーのしてきたことは浮気でしかない。昔も何度も嫉妬を買ったし、現代では複数の相手を同時に愛する男への批判は殊更強い。
だのに、名前はただ笑って、それを何も気にしていない。彼女にとってそれは物語の中の出来事で、今ここにいる自分の過去だと認識出来ていないのかとも思ったが、彼女の信じすぎる性格からしてそれは無いだろう。
──いや、そもそもオレが付き合いだしてもナンパを続けているのに何も言わない女だし、嫉妬しない奴なのか。そうクーが引っかかりを感じているのに気付いたのか、もしくは話したくなったのか、彼女はあのね、と口を開いた。
「クーは今ここに居てくれるし、一緒に話をしてくれるし、私を好きだって思ってくれてるらしくて、それが幸せ! でも嫉妬っていうか、独占欲っていうか、私だってそういうのは勿論あるよ」
困ったように笑って彼女は言う。珍しい、自嘲するようなそれに僅かばかり眉を顰めたクーの眉間に、名前は指を添えた。顔に浮かべていたのは、よく見せる得意げな笑い。
「だからね、クー、私と勝負しよう」
「勝負?」
「そ! 私が一方的に仕掛けるだけで、クーはずっと防戦一方みたいになるんだけど」
何かは知らんが、そりゃあ不公平だろ。クーが口に出す前に、名前は彼の胸に飛び込んだ。事もなく受け止める。彼女は、ひひ、と悪戯っぽい声を漏らして、
「私がクーを夢中にさせられたら、私の勝ち! 他の女の人のこと見えないようにしてやるんだ!」
目一杯格好つけた顔でそう言った。驚いたのは彼の方で、幾度かの瞬きを繰り返す。暫くお互い無言の時が続いたが、彼女の頬が段々と赤くなったかと思えば、反応してよー! と頭をクーの胸にぐりぐり押し付けた。彼は思わず笑みを零して、名前を抱き締める。
「いいぜ、その勝負乗った」
「やった!」
心底嬉しそうな笑顔を見せて、腕をばたつかせる。オレを夢中にさせたいなんざ可愛いじゃねえの、お手並み拝見と行こうか。なんて気取ったことを考えて、──まあ、だが、と。彼女に見えないように苦笑いすると、クーは抱き締める腕に力を込めた。
「ただいま」
「おかえりなさーい!」
笑顔の出迎えにキスを返す。名前は照れ臭そうに視線を下に落としたが、くつくつ笑う声にさらに頭ごと俯かせた。照れを誤魔化すためか幾許かの間あーだのうーだの口籠って、やがてクーを見上げるとこてんと首を傾げた。
「あのさ、クーってバイトの時間変わってないよね? 最近帰るの早いけど」
不思議そうに言う彼女には、あの時の挑戦的な姿の面影は無い。脳裏を過ったあの言葉と今の自分に笑いながら、クーは言った。
「ああ、変わってないぜ」