後日談02
「ひとつ、聞いて欲しいことがあるのだが、良いか?」
「良いも何も、私は文鴦殿の話ならなんでも聞くよ」
会って早々、文鴦殿は真面目な口調で話を切り出した。彼はこういうところがある。些細なことでも、頼みごとはきっちりした体裁を整えてから出してくるのだ。それに最初は戸惑いもしたけれど、今は納得もいっていた。大事だと思っているからだ。大事なことを伝えたい、大切な相手だと思ってくれているから、そうなるのだ。
これから言い出すことは、文鴦殿にとってとても大事で大切なことだと思うと、緊張する。でも、ちょっとだけ、なんだろうな、と好奇心に駆られて、彼の言葉を視線で急かす。文鴦殿は僅かに面持ちを固くすると、ぽつりぽつりと語り始めた。
「わたしの本名が『文淑』であることは知っているだろうか」
「えっ、そうなの!?」
初耳ですね!?
思わず大きな声を出してしまう。部屋中に積み上げられた角材の山がすべて崩れ落ちてしまった、一瞬そんな光景が頭に思い描かれて、慌てて周りを見回した。良かった、なんともなってない。
文鴦殿、いや、文淑殿……、は、困ったように笑っていたものの、私の挙動で首を傾げた。大丈夫大丈夫、びっくりして挙動不審になっただけだよ。正直に言えば、文鴦殿も得心してくれた。素直だ。
「驚くのも無理もない。『文鴦』という呼び名は、幼名の『阿鴦』から来ているのだが、このことを知っている人は少ないのだ」
「なるほどなあ……、みんなそう呼んでるもんね……」
自分が思っている以上に、私は呆気にとられているらしい。そういう声色になった。
文淑殿は苦笑して、私をしっかりと見つめる。
「あなたには、本当の名で呼んでもらいたい」
それに私はまたぽかんとしてしまって、文淑殿が居心地悪そうにした。申し訳なさを覚えつつも、じわじわと顔に熱が集まってくる。
だって、こんなの、嬉しいし、可愛いし、愛おしいじゃないか。
私にはほんとうの名前を呼んでもらいたい、なんて。私には、なんて。
私は大切に思われているんだ、好かれているんだ、と実感して、むず痒くなる。身動ぎすると、文淑殿はもっと真剣な顔をした。
「妙に思うかもしれない。
だが、幼名から来ている呼び名であるから、どうにも子供扱いされているような気がしてしまうのだ。
勿論、皆にそのつもりが無いのは分かっている。私の問題だ。
……それでも、あなたにだけは、……子供扱いされたくない」
そしてこれ。耳までいっぺんに熱くなって、手で顔を覆った。こういうところが、ずるいんだよなあ。素直さって、どうしてこんなにも武器になるんだろう。どうしてって、どうしてかは今まさに実感しているところなんだけれど。
私には子供扱いされたくない、という言葉を口の中で噛み締めながら、手を下ろす。途端、文淑殿の、真摯で、でもどこか乞うような瞳が見えた。はじめて見る目だ。圧倒的な武勇と芯の通った志を持つ文淑殿が、身体も心も弱っちい私なんかの是非に振り回されている目だ。
きたない楽しみ方、喜び方だとは自覚していても、くらい幸福は甘くてうつくしすぎるから、突き返せるわけもない。
縋るような視線を向けてくる文淑殿の方へ、ぐっと身を乗り出す。圧倒的な身長差が生み出す座高の差を利用して、彼を見上げるような覗き込むような体勢をとった。そうして彼のすごく近くで、彼にまっすぐ届けてみる。
「文淑殿」
その顔が強い色に塗りたくられた。
面白くって、調子に乗る。
「へへ、文淑殿、おっう!?」
刹那、身体が浮いた。腕の付け根、脇ががっちりと固定されて、そのまま文淑殿の胸元に飛び込んでいた。それどころか、彼の膝の上に身体ごと乗っかっている。状況を把握できたので、反射的に強張った全身を弛緩させた。流れるように寄りかかり、腕を彼の背に回す。情熱的で衝動的。文淑殿の愛情表現によくよく当てはまる言葉だ。苦しいぐらいにぎゅうぎゅう抱き締められるものだから、ふふ、と笑みが零れる。そこでハッとしてしまったのか、文淑殿は力を弱めた。勿体ない。私はそうそう潰れやしないのに。でも、そういう優しさと真面目さは美徳なのであって……、ああ、結局、ぜんぶぜんぶ好きだなあ。
「ね、文淑殿」
「ああ、すまない、どうしても堪えきれず」
「ううん、批判じゃないんだよ、文淑殿」
謝ってはいるけれど、きっと離す気が無いからこその謝罪なのだろう。
とはいえ、そもそも謝らずとも良いのに。これから言おうと思ったことは、勇気が要る内容だから、出来るだけ近く、傍に居てくれた方が安心出来る。
まあ、緩められた腕にも利点はある。目を合わせられる。さっきの彼も私の目を見て言ってくれたし、私もそれに倣いたい。青灰色を見つめると、彼は不思議そうに瞬いた。頬と共に、緊張が緩む。言葉を紡ごうとする口元もへにゃついた。
「ねえ、嫌だったら言ってほしいんだけど。いっそのこと、というか。
次騫、はだめ?」
「……」
そんなだらしない顔で言ってみると、彼は硬直した。
……一気に距離を詰め過ぎたかも。
やらかしたような気がして、俯こうとする。が、そのとき気付いた。私の背中で、彼の腕がうろうろしている。
「名前、殿……」
「う、うん」
「嬉しい」
不思議な挙動に首を傾げて間もなく、次騫は笑った。その笑みもぎこちない。嫌では無さそうだけれど、何か、変だ。
「次騫」
「あ、ああ」
一度のお試し感覚と、問いかけも含めて、新しい呼び名を口にしてみる。次騫はやっぱりもぞもぞしながら返事をした。よく見ると、頬がちょっと赤い。
これはもしや。
悪い予想がすっ飛んで、もうこれ以上どれだけにやにやすれば良いのか分からなくなる。それにあんまり笑うと次騫に悪いようにも思えて、口を引き結んだ。
私の予想では、次騫もたぶん、こんな感じ。
じゃあどうするかと言ったら、我慢する必要なんかないと伝えるだけだ。
腕を解いて、身体を離す。その状態で、腕を大きく広げた。次騫が瞠目する。瞬間、さっきの苦しかったやつよりももっと強く、抱き締められた。予想的中。
抱き締め返すのが難しい大きな背中をぽんぽん叩く。そんなに喜んでもらえるのなら、勇気を出した甲斐があった。何かに踏み出す勇気は次騫がくれたものなのだから、返すことが出来ていると思うと、もっと嬉しい。
「名前」
「うん、……ん!?」
とか油断すると、爆弾を投げてくるのが天然さんというやつだ。
遠慮が無くなった呼び方に動揺していれば、次騫の「良いだろうか」が聞こえた。その声色は、確認を取るようでいて、熱が滲んでいる。呼ばせてほしくて仕方ない、と言外に訴えられていた。そんなに主張されなくたって、なんというか、もう、求められているだけで、胸がいっぱいになるのに。機械だったら動力が大きすぎて逆に恐れていたところだ。
「い、良いよ……、す、すごく! うん! うっ、うれしい……」
かく言う私も、感情の勢いが強すぎて、うまく言葉を発することが出来ない。ぽんこつだこれは。修理したい。出力を調整したい。工具が欲しい。取りに行きたい。いや、本当は人間なんか修理出来ないけど、御守りがわりに。
工具箱に走って行きたくなりながらも、次騫の腕から離れがたくない気持ちもあって、そわそわしてしまう。ちなみに、むず痒いので身体をちょっと動かしたかったけれど、次騫にがっちり固められていた。次騫、ちからつよい。
私がもだもだしていると、次騫が辛そうな声で「名前」と呟いた。逃げ出そうとしたと思われたかな? それは弁解したい。パッと行ってパッと戻ってくるつもりだった。
しかし、その旨を伝えようとする前に、次騫が口を開く。
「……すまない、その、抱き締める以上のことがしたくなった」
「はえ」
天然特製爆弾に変な声が出た。
もしかして、距離の詰め方早いの、私より次騫の方か!? 私、まだ心の準備できてない!