087
「あなたに母を見ているのでしょう」
綾御前が告げた突飛な言葉に、兼続はぴしりと固まった。
己は今、何を言われた。
母?
自分は立派な武家の男であるのに。
しかし、御前の言われることに間違いがあるはずが。
錯綜する思考。その傍ら、御前は続ける。
「あの子を上杉に迎えたとき、亡くした母のように思っても良い、と言った綾ではなく。
兼続、夫であるあなたにそれを見たというのは、不思議な話です。
けれど、それもあなたの愛の成したわざなのでしょう」
「……そう、なのでありましょうか」
疑問と確認の混じった問い返しに、綾御前は「ええ」と笑った。
であれば、兼続の為すことは、決まっていた。
屋敷の私室にて、兼続は畳の上で正座をしていた。そして、その膝に縋る女の姿が、ひとつ。
兼続の妻である、名前であった。
「ううっ、ひう、うう、うう」
名前は、ただ泣き喚いていた。正体もなく、体面もなかった。
兼続は、その姿を嫌悪することなく、小さな頭を撫で、優しく囁いた。
「大丈夫だ。何も恐れることはない。
愛している。愛しているぞ、名前。
お前は私の宝物なのだ。愛している」
そうすると、名前はまたワッと泣いた。どんどんと増える涙の量に、干からびてしまわないかと心配し、獣の唸り声に似てくる泣き声に、喉を痛めてしまわないかと心配した。
厭う気持ちはすこしも無かった。名前がこうなることに、慣れきっていたのもある。しかし、初めて見た頃から、そうであった。愛があったから。
名前は、本来なら、武家に嫁ぐような身分のある者ではない。村に住む、ひとりの娘であった。村中の人間から、「気狂い」と遠巻きにされていることを除いて。
なんでも、彼女は、物心つく前の話し言葉が、幼子のそれではなかったそうだ。流暢に、大人のように話し、誰も教えてもいない南蛮の言葉さえ混じらせているようだったという。
彼女が産まれたとき、母親の命を引き換えとしたことも、その不気味さにいっそう拍車をかけてしまったらしい。
そのようなもので、父親まで気を病み、病死。孤立した彼女が死ななかったのは、村人にあった僅かな情であったのか、化け物を殺しては呪われるかもしれないという恐怖か。
ともかく、痩せ細りながらも生きながらえていた名前は、その村を訪れていた兼続と出会うこととなった。
兼続は、彼女に、ひと目で心を奪われた。
その寂しそうな佇まいが、義も愛も学ぶことができなかった絶望の在りようが、同情というかたちで表れたのかもしれなかった。
けれど、「守ってやりたい」と思ってしまったのは、事実であった。
村へ通い、また誰も教えていないはずの文字──彼女は相当な悪筆で、誰も教えていないのにここまで書けるのなら天賦のものと言うべきかとも言えようが、判読できない文字ばかりであったし、後ほど聞いたが名前も名前で兼続の書いたものを読めなかったそうだ。逆に言えば言葉は伝わらずとも気持ちは伝わったということである。そのなんと義と愛に満ちたことか──で手紙をやりとりし、周囲の反対も義と愛の力で説き伏せて、兼続は名前を妻に迎えた。
居心地悪そうに、まるで叱られるのを恐れる子供のように屋敷で肩を縮こめていた名前も、次第に兼続の前でだけ、心を落ち着かせることができるようになっていた。兼続は、それが途方もなく、嬉しかった。髪を撫でると泣きそうに嬉しそうにし、愛を告げるととうとう泣いてしまうのが、いたましくて、愛おしかった。
その日々を重ねた頃、名前は「気狂い」のような様を晒すようになった。
そういうとき、名前は決まって、兼続の膝に縋った。どうやら無性に寂しくなってしまうと正気が失くなるようだ、と兼続はいつしか気付いていた。
「あ゛あ、うっ、ひぐ、ねえ、ねえ」
「うむ」
ひどかった泣き声が、次第に落ち着いていく。嗚咽に、言葉と判断できるものが混じる。
ここからが、更なる狂乱の幕開けであることを知っていた兼続は、名前の髪を殊更優しく撫でた。
名前は言う。「ねえ、」
「テストで悪い点とっても怒んない? 良い点とっても怒んない? その程度って言わない? 褒めてくれる? 頑張ったねって言ってくれる? お前なんかって言わない? 意味無いって言わない? 頑張ったねって言ってくれる? ピアノも? 英会話も? 塾も? ぜんぶ? ちゃんと頑張ってるって言ってくれる?」
「ああ、頑張っている。お前は頑張っている。私はちゃんと知っている」
──誰も教えていない、南蛮の言葉をも話す幼子。
初めて聞いた時は、半信半疑だった。今では、事実なのだと思い知らされた。
意味の取れない言葉で、しかし、名前はただ、子供のように泣いていた。
御前に教えられた今の兼続なら、それが比喩にはとどまらず、彼女の中の子供が泣いているのだと、はっきり理解できた。
彼女の欲しがるのは、「親」が「子供」に向ける「愛」だ。兼続だって知っているものだ。御前から、謙信公から、受け取ったものだ。己の努力を認め、褒め、そして至らぬところがあろうと、絶対に失われないもの。親はこの世の全てであると、幼く狭い世界で生きている子供が、ほとんど唯一の拠り所とするもの。
──不思議なことは、彼女の父母は共に早々に亡くなっているうえ、南蛮の言葉を使うような事柄に、ただの村人が関係するはずもないことだが。
「しっ……。
失望した、って、言わない? 好き? 私のこと好き? 大事?
点数で、好きを決めない? 何しても嫌いじゃない?
私のこと、私……、どんな私でも、大事? すき?」
「大事だとも。好きだ。愛している。何があろうと、私はお前を愛している」
それでも、今、名前はそのことで泣いている。得られなかった愛を欲している。
兼続にとっては、それだけが全てだった。
彼女の言葉に答えるように、胸の内を告げ続ける。
いつしか彼女からは言葉を発する理性が無くなり、泣きじゃくるだけの子供に戻り、兼続の膝をびしゃびしゃに濡らした。
泣き声の途切れ始めた頃合いを見計らって背をも撫でると、名前はそのまま、眠りに落ちた。
「……すみませんでした」
「いいや、謝ることではない。妻を支えるのも、夫の役目だ。
愛だ」
「……私、へんなこと、いってません、でしたか。テンショ──勢いで、言ってる、というか、パ──錯乱してる、から。私も、何言ってるか、わからないというか、覚えていないというか」
「ちっとも」
目覚めた名前は、兼続に頭を下げていた。その心にはしっかりと正気が戻ってきていたが、だからこそか、申し訳無さそうにする。眠っている間に懐紙で顔を拭ってやり、布団にも運んでやったのだが、それで名前も自分のしたことに気付いたらしかった。兼続は慣れているが、名前は未だ慣れていないらしく、毎度こうして謝ってくる。その度、兼続は「迷惑をかけても良い」と言っているのだが。
だから、良い加減にわかってほしい、そう謝らないでほしい、と感じるところなのだろう。
だが、兼続はどうにもそう思えなかった。
義と愛の精神もある。けれど何より、この卑屈さこそが、今の名前を構成するもので、あのとき自分の目を奪った、あの寂しさなのだと知っていた。
故に、本心から言う。
「愛らしいとすら思った」
名前はとうとう申し訳なさを引っ込めた。驚愕するに変わっていた。
その驚愕も、やはり愛を知らぬがためのものだった。
正座する名前の膝の上、彼女の両拳が握られる。
「……兼続さんは──、……、……すみません。
『なにか』のようだ、と思うのに。その『なにか』が、出てこなくて」
「はは、それこそ謝ることではないだろう」
名前はきっと、「母」というものを知らない。だから、感じるものを言葉にすることができない。知らないものの名前を唱えることは、常人には不可能だ。
であれば、己はこう言ってやるのが正解だろう。
「名前」
「……はい」
「私たちは、夫婦だ。
お互いを助け合うもの。お前を、私が助けるもの。
夫婦とは、家族とは、そういうものだ」
「────」
名前が目を見開いた。瞳が零れ落ちそうで、再びの心配が襲ってくる。そうならぬようにと祈りを込めて瞼に口付けると、名前も反射的に目を瞑り、そして、口を真一文字に引いた。涙を堪えているようであった。
そして、時折うすく唇を開いては、すぐに閉じた。「ありがとうございます」と言いたいのに、涙を堪えることができなくなるから言えないのだ、と兼続には判断がついた。名前の行動は、全体的に見れば突飛なものも多いが、こういうときは画一的で、見覚えのある行為をすることが多かった。
名前を抱き寄せる。兼続のところに来てから知ったのであろうこの動作に、名前は恐る恐る身を委ねる。
ありがとうございます、と、小さく聞こえた。
200916修正
201202修正
約30の嘘
求めているのは「母」というより「家族」「保護者」全般ですが御前は「母」なのでそういう捉え方になる、という裏話
そして最後の夢主はべつに納得しているわけではない