058
「オリアス先生!! 不可視の魔獣に懐かれたってホントですか!?」
「……まあ、ウン」
職員寮でロビンに尋ねられ、オリアスは頷いた。
ロビンの言う通り、オリアスは最近、突然現れた魔獣に懐かれているので。
初めは、バビルスでのこと。
誰も居ない占星学の教室で、肩を叩かれるような感覚を覚えた。驚いて振り返るも、そこには当然の如く、犯人の姿は無い。
──気のせいだったかな。
首を傾げ、また正面へ向き直る。と、今度は、スーツの裾をくいっと引かれた。
「……なんか、居る?」
引っ張られたスーツの裾を見下ろしながら呟くと、そうだ、とでも言うように、また裾を引かれた。
「バラム先生に聞いてもみたけど、現状、該当する種族は居なさそうだって。
そもそもバビルスのうちの教室まで魔獣が入ってこれてる理由もわからないし、誰にも触らせようとはしないから姿も尚更わからないし、これは新種かも、ってはしゃがれて……」
「バラム先生にもわからないってレアな魔獣じゃないですか!! やっぱり使い魔にしちゃいますか!?」
「いや。見えないうえに、まだ生態も知能もわからないのに、責任も持てないから」
「え~~!! それはそうかもしれませんけど~~!!」
でも、夢があるのに!!
ロビンの言葉に、オリアスは目を逸らした。
──正直、自分の状況に困っているので。
件の魔獣は職員寮に入ってくることはないものの、バビルスの敷地にずっと住みついているらしい。そして、オリアスが学校で仕事をしている間は、できるだけ側に居るようだ。不可視とはいえ、ここしばらく共に居るとなれば、なんとなく気配のようなものがわかってくるものである。
謎の存在が現れてすぐ、オリアスはバラム、そしてカルエゴに話をしに行った。渋々ながら。相手は未知の魔獣だ、警戒せねばならない。不可視の存在に「着いてきて」と言いながらスーツの裾を指し示せば、魔獣はそれを摘んで静かに着いて来た。そうして、ふたりに会わせた。
結果、バラムには懐かず、ケルベロスには怯えるという、まあ有り体に言って「ありがち」な魔獣の反応に、とりあえず様子見で、の判断が下ったのだった。カルエゴは些か怪訝そうだったが、未知の魔獣に興味を示したバラムとダリに押し切られた結果である。
そんな一波乱があって、オリアスはあのカルエゴと相対しなければならなかったことと、「面白がられている」状況の要因を作った魔獣に、ちょっと勘弁してよ、と思う気持ちがあったのだ。
自分にしか懐かない生き物となれば、愛着が湧きはするのも、これはこれでまた困りもの。いくら愛着が湧いて、ちょっと構ってやろうと思っても、姿が見えないのだから。触らせようとしてくれないし。
ロビンに伝えた通り、魔獣の知能だってわかったものではない。
あるとき、オリアスとふたりきりの教室で、魔獣がチョークを持ったことがあった。宙に浮き、黒板に向かったそれに、まさか悪魔の言語を解すのかと思い──魔ミミズののたくったようなものが描かれて、オリアスは期待と危惧を感じた自分を恥じたものだった。
そんなこんなで、オリアスと謎の魔獣の日々は続いている。
──ふと気付いたら、見知らぬ土地だった経験、あなたにはありますか? 私にはあります。
ついでに、誰にも自分の姿が見えなかった経験ってありますか? 家族やクラスメイトから陰湿な……とかじゃなく、本気で、見えなくて。私にはあります。しかも、誰にも触れないし、触れられることもない。すぅって、透明みたいにすり抜ける。
私の身にそれが起こったとき、立っていたのは荒野じみた地面だった。真夜中らしく真っ暗で、見たこともない植物がわしゃわしゃ生えていて、葉っぱの間から伸びる枝はツタでもないのに曲がりくねっていた。試しに歩き回ってみれば、断崖絶壁に辿り着いた。
最初は、変な夢を見ているのだと思った。探索の途中に見つけた、コウモリみたいな羽の付いた猫は猫らしく可愛かったけれど、私に気付く様子は無かった。人間の身体に動物の頭が付いたみたいな、ぎょっとするような見た目の存在──のちに「悪魔」だと知った──も、私を見ることはなかった。すれ違うときに身体がぶつかったのにも関わらず、まるで当たり前みたいに私の身体をすり抜けていった。
たまにはこんな夢もあるか。
そんな楽観視が解かれるきっかけとなったのは、まず、学校らしき建物を見つけたことだ。
夢の中だからと言い訳して、中に入ることにした。高い塀を登るのは大変だと心配したけれど、やろうと思えば物質もすり抜けられるみたいで、存外あっさりと敷地内に入ることができた。
夜更けの学校に忍び込むという行為と、見上げるぐらい高い天井と、道路かと思うほどに広い廊下に、最初はテンションを上げた。ファンタジックだ! なんて。
夢というのは、今まで見た記憶のつぎはぎだという。だから、漫画とかアニメとかゲームとか、もしかしたら小さい頃に読んだ絵本とか、自分では意識的に思い出せないような記憶から作り上げられた、面白い世界なのだと思った。こんな想像力があるなんて、自分には作家の才能があるんじゃないかと考えたぐらいだった。
──けれど、それにしては。
その世界は、あまりにも精巧で、緻密すぎた。
空が明るくなって、学校が始まる時間帯になると、大勢の生徒や教師が学校内を歩き始めた。その全てが、人間のようで人間ではなかったり、人間とは似ても似つかぬ存在であったりした。私を見ることは、その誰もできなかったけれど。
楽観視していた私だって、これはおかしいと思い始めた。いくら私に想像力という秘められし才能があったのだとしても、ここまで精密にひとりひとりを考え出せる気がしなかった。話し声は理解できたけれど、聞いたことのない言葉も頻出していて、ほんとうに「そういう世界」があるみたいだ、と。
他にも違和感は積み重なる一方で、──私はとうとう、「別世界に居る」という事実を、受け止めることになった。
最初は抵抗した。誰にも見えない、時間が経ってもお腹が空かない、身体は汚くならない、暑さや寒さ、睡眠欲も感じない。それのどこが夢じゃないのか。そう考えることで、現実から逃げようとした。
でも、現実から逃げることなんて、できなかった。
現実だと思い知って、まず最初に襲ってきたのは、圧倒的な、──孤独感だった。
だって、誰にも私を見てもらえない。異分子。異常。異端。浮かぶ言葉は、「私はおかしい」というものだった。
寂しいとか、そんな生易しい話じゃない。自分だけがおかしい。正常なひとびとが川の向こう岸、私だけひとりでこっち側。
誰かに私を見つけてほしい──悪魔は人間を食べるらしいと聞いても──のに、向こう岸のひとびとを見るのが辛い。
泣きながら暮らす日々が続いた。逃げ惑うみたいに、校舎内のひと気の無い場所ばかりを駆け回った。
誰もが、私の身体をすり抜けていった。
学校を出ることは、考えられなかった。万が一、誰かが私を見つけたとして、学校という機関ならある程度は安全が保証される気がしたし、これ以上は場を動きすぎるのも、新しい向こう岸のひとびとを見るのも、嫌だった。
はっきり言って、私はおかしくなっていたんだと思う。こうやって思い返せる今だって、正常な精神をしているかどうか、自信は無い。
──ただ、思い出みたいにできるぐらい回復したのは、あの出会いがあったからだ。
その日も、私は、悪魔たちの身体をすり抜けて、誰も居るようで誰も居ない場所を探した。空き教室ではいけない。片手で数えられるくらいの人数が居る場所が良かった。「誰かに見つけてほしい」と「向こう岸のひとを見たくない」の二種類の孤独が、両方休まって、両方のつり合いもとれるぐらいなのは、そういうところだった。
そうやってふらふら迷い込んだのは、ひとつの教室だった。教室名を示す札は読めなかったけれど、話し声は理解できていたので、これまでの経験で何の教室かは知っていた。占星術の教室。私の知る世界には無い教科だった。
扉をすり抜けて、中に入ってみる。そこでは、美形の男がひとり、何らかの作業を黙々とやっていた。彼の正体も、それまでの間に教師であると知っていた。授業中のこの教室に入ってしまったこともあった。ああ良い先生だな、と思った覚えがあった。明るいし、若さもあってか、親しみやすくて。「だいぶ先の話だけど、この辺テストに出やすいよ」なんて生徒に教えてくれていて。
──素敵だなあ、いいなあ、こういう先生。
気付けば、自分は彼に近寄っていた。まるで引き寄せられているみたいだった。
そして、途中で、足がもつれた。
転びかけた私の手は、彼の肩に触れた。
──「触れた」のだ。
ヒュッと喉から音がした。何事かという風に彼が振り返ったものだから、今度こそ地面に尻をついた。
震える手で、目の前にあったスーツの裾を、摘んだ。
「なんか、居る?」
──あちらとこちらを隔てる川から、水が引いた。
その日から、私は、「オリアス先生」の側に居ることを決めたのだ。