054

 オーロラは、小さな茶会を開いていた。コーラルのような臣下も側につけず、ただ、目の前の名前とふたりきり。

「……あら?」

 そこに至るまでの過程を、オーロラは思い出せなかった。どころか、「名前」という存在がいかなものであったかすら。
 頬に手を当てて首を傾げる。愛らしく、品のある仕草に、名前は笑った。

「気にしないで。ここは……そう。
 夢の中だと思って」
「夢? ……そうね、夢ね」

 だって、よくわからないもの。オーロラも笑って、ティーカップを持ち上げた。湯気が美しい鼻先を撫でる。温かな琥珀色が、唇を濡らした。
 名前は満足そうに、オーロラを眺める。
 対して、オーロラから見た名前の姿は、おぼろげだ。
 自分の氏族だった気もする。他の氏族だった気もする。
 自分の臣下だった気もする。街で暴れる困った人だった気もする。
 初対面だった気もする。長い友人だった気もする。
 妖精ではなかった気もする。
 どれも正しいような、正しくないような、曖昧な感覚。
 それが煩わしくて、けれどどうしてか、払いのけようとは思えなかった。
 だからこそ、これは夢だという名前の言を受け入れた。だって、こんなに不思議なもの、現実であるはずがなかったから。己の疑念をはっきりと見透かして夢だと答えたことも、──このおかしな状況を、己が厭っていないことも。

「……それで、私たち、どうしてお茶会をしているのかしら?」
「あなたと時間を過ごしたかったから。それではおかしいかな?」
「あら」

 輪郭の掴めない名前だというのに、オーロラにはその感情が鮮明に伝わってくる。オーロラと共に過ごしたいという言葉は、紛れもない真だと感じられた。
 名前の透明な視線は、己だけに注がれている。

「かわいいひと」

 紡がれた言葉に、ぱちりと目を瞬かせる。
 この妖精國で、最も輝く存在。
 そうでなければ生きていけないのが、オーロラという妖精の生態だった。そのために自分を中心とした世界づくりをしてきた彼女は、当然ながら褒めそやされた。美しい、お優しい、お綺麗、高貴。「可愛い」は、あまり耳に馴染みが無い。

「かわいいかわいいオーロラ様。いずれ■■■■■■オーロラ様。
 私は、あなたがとても好きだよ」
「……? 聞こえなかったわ。ごめんなさいね、もう一度教えてくれるかしら」
「ううん、聞こえなくて当然。私にしかわからない言葉だから。
 でも、誓って、あなたを貶したわけではない」

 名前は気取った調子で紅茶を口に運ぶ。今度は隠し事をされている違和感があって、オーロラは少しばかり気分を害した。──というのに、名前を虫にでもしてやろうという気持ちが湧かない。このままにしてあげようかしら、の許容や、周囲へのパフォーマンスでもなく、ただ、己には、そうしたいという感情が初めから無かったようだった。これもきっと「夢」のせいなのだろうけれど、自分がちぐはぐなのは厄介だ。
 なんとも言い難いわだかまりが胸の内に広がると、その黒い淀みが全身に広がって周囲に振りまかれてしまいそうで、もしそうなったら、オーロラが行きついてしまうのは。

「……ああ、ごめんね。早めにお暇しよう。そして、悪夢は忘れてしまうのが一番だよ」

 難しいね。名前は苦笑して、居住まいを正した。すうっと長く息を吸う。

「かわいいオーロラ様。無力なオーロラ様。──自分より美しいものを見てしまうオーロラ様。
 一番輝いていなければ死んでしまう、小さな妖精國でしか生きられないよう生まれてきてしまった、弱い生き物のオーロラ様。
 その翅を一枚でももぎって、輝かしいあなたを構成するものを欠けさせてしまえば、簡単に死んでしまうのだろうオーロラ様。
 かわいいかわいいオーロラ様。
 あなたが思うよりも人間の世界は広大で、人間たちは多様で、あなたを一番輝かしいと思う者はきっとずっと少ない。
 私だって、あなたを一番に思うのは今このひとときだけかもしれない。
 それでも、一番ではなくとも。
 どれだけ多くが、あなたの死を望むほどに嫌悪しても。
 オーロラ様、ただ愚かに、懸命に生きようと足掻いただけの羽虫にすぎないあなたを、かわいいひとと思っていることは、真実だ」
「……、────? あなた、今、何か言ったかしら……?」
「そう、聞こえない。あなたには聞こえない」

 名前の声は、あまくふるえ、とろけている。

「だって、これは悪夢だ」

 そして、────。

「オーロラ様? どうされました?」
「……、コーラル?」

 臣下に声をかけられ、オーロラは名前を呼び返す。どうされましたも何も、自分は──、少し、ぼうっとしていたかもしれないが、己の部屋で、気ままに茶を傾けていただけだ。
 この國のたったひとり、一番に輝く自分を慕う民たちを、窓越しに見下ろしながら。



211117 約30の嘘