035

 自分がこんなに我儘だなんて知らなかった。
 そりゃあ、私だって立派な悪魔なのだから、欲望があっても、享楽主義でも、なんにもおかしくない、むしろ正常として良いはずだ。
 それでも、ちょっとした分別というか、越えてはいけないラインみたいなのは、解っているつもりだった。本当は全然解っていなかった。分かってはいたかもしれないけれど、それがどういう意味かを理解することは、きっとできていなかった。

「イルマ様が──。
 イルマ様は──。
 イルマ様に──」

 ──アズ、どうして、他の誰かの話ばかりするの。
 ──アズ、今、目の前に居るのは私じゃないの。
 ──アズ、私たち、今、ふたりきりだよね。
  ──アズ、私たち、……私たちって、どういう関係だったっけ。
  
 アスモデウス家の豪奢なお茶の席で、どうしてこんなにいやな気持ちにならないといけないのだろう。恋人との、甘くて優しくて穏やかなティータイムなんて、本当はすっごく幸せなことのはずなのに。
 向かいに座っているアズは、ずっと「イルマ様」の話ばかりで、私はちっとも面白くなかった。
<  最初こそ、楽しそうなアズが微笑ましかったし、アズが嬉しいなら私だって嬉しくなった。元より、恋人より優先するものがあったって良いじゃん、と思っている方だった。なのに、だけど、だんだん、そうでなくなってきた。
 つまり、今の私は、どうしようもなく、嫉妬してしまっていた。
 アズに、私より優先する相手が居ることに。
 アズが、──ただ私と何気ない会話をするときより、誰かの話をするときの方が楽しそうなことに。
 それらに一度引っかかってしまえば、一気に全部が受け入れ難くなった。テーブルには美味しそうなお菓子や紅茶があるというのに、全然食べる気も飲む気も起きなくて、手を伸ばすのも億劫だった。
 ──もう、帰ろうかな。
 今日は何もかもうまくいかない日なのかもしれない。多分そうなんだ。
 運とか巡り合わせとかそういう漠然としたものに自分の不機嫌を押し付けて、頭の中で断りの言葉を組み立て始める。
 そのときだった。
 アズの言葉が、「イルマ様」から始まらなくなった。

「いかん。
 すまない、名前」
「……なんのこと」

 久方ぶりのそれは謝罪で、私の返事は、我ながらびっくりするくらい冷たい声になった。
 自分で聞いて、こんなはずじゃなかったのに、と思った。
 楽しくて明るくて、一緒に居られるだけで幸せだって、そう伝わるような声で、そう思ってもらえるような声で、彼とお話したかったのに。なんで、こうなっちゃったんだろう。
 私はとうとうアズの顔が見られなくなった。俯くと、ティーカップの中、半分ほど中身の残っている赤茶色が、私の情けない顔を映した。

「……名前。
 最近。イルマ様に指摘されたのだが」
「……うん」

 また「イルマ様」に戻ってきた話題に、「うん」になりかけの、「んん」みたいな、鼻から抜ける空気みたいな、高貴な彼の相手にはとても似つかわしくないような声で答えた。
 しかし、アズはそれを気に留めた様子も無く、むしろ更に申し訳無さそうな「すまない」を重ねた。それに続けて、彼は言った。

「私はイルマ様に自分の私生活を話すとき、名前との話ばかりしてしまうらしく。
 自分では自覚が無かった──いや、私自身、自分が名前を愛しているのは十分知っているつもりだったのだが──それ以上のようだと、イルマ様は仰られたのだ」
「──」
「それで、……こうして、いざ名前と向き合ってみると、あのイルマ様の指摘が思い出されて、……。
 今まで言えたはずの言葉でも、うまく口が動かず。つい、話しやすいことばかりを」

 いや、これは言い訳だな。
 そう眉をひそめたアズに、私は、唖然としてしまった。アズの頬は、彼の瞳の色に負けないくらいに赤かった。表情もくしゃくしゃで、とてもではないけれど、「アスモデウス=アリス」と聞いて一般的に想像されるような、若くもしたたかな悪魔には見えなかった。
 ずいぶんと長い付き合いの私でさえ、初めて見る姿だった。
 ──けれど、それは確かに、私のために生まれた顔だった。

「……ばかアズ」
「すまない」
「ほんとだよ。
 ……なんか。なんていうかさ」

 口の中で、音にならない情が転がる。アズは私が怒っているものだと思っているようで、揺れる瞳を私に向けていた。
 肩から、ふっと力が抜けた。愚痴を言うみたいに、行儀悪く頬杖をつく。

「さっきまで文句で一杯だったはずなのに。
 なんだか、なんにも、言葉が出てこなくなっちゃった」

 言うと、アズは目を瞬かせる。そして、もう謝罪する意味が無くなったことに気付いて、表情を和らがせた。
 更に次の瞬間、「おそろいというやつだな、イルマ様が……」なんて微笑んだアズが、すぐさまアッという口の形をしたけれど、私はもういやな気持ちにはならなかった。むしろ、最初みたいに、アズのことを微笑ましく思う気持ちに戻ってきていた。
 ──こんなことで機嫌を直す私は、ちょろくて、弱くて、馬鹿みたいだろうか。
 でも、私にとっては、私の欲しいものが、ちゃんと戻ってきたのなら、もうなんでも良かった。欲しいものが欲しい。それが悪魔だろう。ならば、今の私は及第点だと、そういうことにさせてほしい。
 紅茶に口を付ける。欲望の満たされた胸の中では、冷めた液体も簡単に温まってしまうだろうなんて、ちょっとおかしな妄想をした。くだらなくて、でもちゃんと笑えた。



200711 約30の嘘