011
「璃月には、あまり滞在しないかもしれませんねえ」
「……何故だ?」
名前なる旅人──あの、己の片割れを探す傍らで数々の国を救った存在ではない、スメール出身の平々凡々な──は、鍾離の前でそう言い放った。
当たり前のことながら、名前は鍾離の正体、もとい、「元」が何であったかを知らない。ただ、混み合った食事処で合席になっただけの仲だ。
とはいえども、話好きな名前と、知識を得ることを厭わない鍾離は、この短い間で数々の言葉を交わした。名前はものを語るのが上手く、散らかりかねない要素を綺麗にまとめ、関連付け、筋道立てて話す器用さがあった。また、旅の思い出と共に語られる名前自身の所感は、名前という人間の価値観が垣間見えて、鍾離はすっかり、出会ったばかりのこの旅人を気に入ってしまっていた。
だから、名前の先の言葉には眉を動かした。元がこの地を護る神であったが故の肩入れも確かに存在するが、一方で、「凡人」鍾離として見てきた璃月も、素晴らしい国だと感ぜられていたのだ。
心の拠り所であった岩王帝君を亡くしても、璃月の人々は変化した生活に適応した。魔神が現れた時には、仙人とすら協力する者も居た。モラクスとしての性質もあって、「契約」を大事にする(国として作った)この璃月は、それだけで居心地が良かった。
だというのに、名前はこうも簡単に──「璃月『人』」の鍾離の前で──、璃月を早めに発つかもしれないと言った。
もしかしたら何か事情がある、他の国に用があるのかもしれないとも考えたが、名前の少し苦い表情からは、そういったものは読み取れなかった。
代わりに、鍾離の問いかけに対して、目を丸くしてみせた。そこで、鍾離自身も、自分が名前を威圧する風であったことを自覚した。
僅かに乗り出してしまっていた身を戻し、居住まいを正すと、名前は些か安堵したように息を吐く。
そして、鍾離に問いかけられたのを思い出したのであろう。うーん、と視線を彷徨わせる。それが、鍾離の視線と向き合い直るまで、僅か数秒。いかに答えるかを導くまでの速さは、そのまま名前の頭の回転の速さを示していて、鍾離はなお、この人物が璃月を去るのが惜しくなった。
「璃月って、『契約』の国じゃないですか。私の気質には向いていないと思うんですよね」
「そうは見えないが」
「見えなくても、そうなんですよ。
……鍾離さんは、『約束』も『契約』だと思いませんか?」
「思う。程度の差や、書面の有無はあれど、『約束』もまた『契約』のうちだろう」
「それが向いてないなって」
名前は一呼吸置いて、机の下で脚を組み替えた。
「たとえば『自由』のモンドなら、社交辞令は社交辞令になるでしょう。
『いいお店があるんだ、今度行かない?』って言われて、『へえ、いいね』と返事をする。それは、会話を円滑にしたり、その時の気まぐれであったりするかもしれません。
しかし、ここ璃月では、それが『約束』になるかもしれない」
名前が、胡座を組んだその膝を使って、頬杖を突いた。
対する鍾離といえば、「モンド」と聞いて、「あの」バルバトスのことを思い出し、胸の奥にもやりとしたものを抱えたものの、名前の言葉にはしっかりと耳を傾けていた。「契約」がどのように成立するかを明確に定めていない以上、認識のすれ違いで簡単な「契約」が結ばれてしまうかもしれない、と言いたいらしいのは理解できたし、確かにある一面ではそうだ、と納得もいっていたからだ。
「私はちょっと、そういうの窮屈かなって思っちゃうわけです。
『約束』っていうのは、もっと熱意をもって成されるべきだ。『あなたと』『何を』『絶対に』『したい』という気持ちの証明として、『約束』はあるべきでしょう。
だというのに、もしもそれが簡単に結ばれてしまったら、自分の願望も相手の手間や時間や心も蔑ろにしてしまう」
そこまで言って、名前は満足したようだった。食事を再開する名前の姿を見ながら、鍾離はこの短時間で感じたものが間違っていなかったことを思った。
名前という人間は、誠実だ。だから、重みの無い言葉を厭い、「約束」──「契約」に通ずるもの──を軽視したくないと主張する。
ますます、璃月から旅立たせるのが勿体無い。
もっと、傍に置きたい。
……傍に置きたい?
「鍾離さん、手ぇ止まってますけど、考えごとですか?」
「ああ、いや……」
こちらを窺う視線に、鍾離は首を横に振って返した。次いで、名前のその振る舞いに、はっとした。
よりにもよって「璃月『人』」である鍾離の前で、璃月に長く滞在する気は無いと言った意図。それは、迂闊に口を滑らせただけではない。
名前は、鍾離という「人間」の頭の回し方を信用し、「『璃月』の在り方」について考えさせる機会を与えようとしたのだ。
そして、それは決して、「『璃月』は間違っている」と結論付けさせようとするためのものではない。名前の言葉に、そういった悪辣さや押し付けがましさは無かった。
名前は、ほんとうに、単純に、「考えさせてみよう」「ひとつの議題に据えて話し合ってみよう」としただけなのだ。
顎に手を当てていた鍾離に向けた瞳のきらきらしさが、その知的好奇心を雄弁に語っていた。
──良い目をする。まるで、宝石のような。
──宝石といえば、モラクスの管轄だ。
────であれば、この宝石も……。
考えて、考えてしまった自分のことを、鍾離は心の内で振り払った。今の己は、もう、岩神モラクスではない。
そのうえ、「欲しい」とは一体どういうことだ。己はもう神の座から立ち退いたのだから、自分の国に自分の欲しい人間を民として留まらせたがるなど、──?
思考を重ねながら、共に違和感もまた募っていく。
自分の感知できないところで、何かが起きている。
そんな焦れったさが、言葉にし得ない複雑さで、鍾離の頭を塗り潰していく。
──何も言わず、思考に囚われるばかりの鍾離を見つめる名前の目は、期待と失望とがするすると入れ替わっていた。
これではいけない。鍾離は肩を強ばらせた。背中に汗を掻いている気がした。長く生きてきて、殆ど経験の無い動作と身体反応だった。
名前の目が失望に沈む前に、口を開く。名前の期待に叶うような議論を、始めなければ。
「ごちそうさまでした」
満足した顔の名前が、笑顔で席を立つ。鍾離はほっとしながら、その後に続いた。
向かうは食事処の会計──あ。
鍾離の足が止まる。名前が振り返った。
「どうしたんですか、今度は」
不思議そうな名前に、鍾離は、幾度も口にしてきた言葉を、同じように発した。
「モラを、持ってきていない」
「────」
ぽかん。口を大きく開けて、名前が瞬きする。その睫毛が重なる瞬間瞬間に、きらきら光る粒を舞わせているような錯覚を覚えて、鍾離ははて人間にそのような機能があったかと疑問を抱く。
しかし、そんな愚考もまたすぐに振り解かれた。
「あはははは!!」
名前が、声を上げて笑ったからだ。店に入ってからしばらく経ち、人のまばらになった店内でも、その大笑いは注目を集める。笑われている様子なのが鍾離であるのも相俟って、視線の強さは度を増した。鍾離の悪癖を知る、普段商いをしているような人間たちは、なんとなく流れを察して、眉を八の字にしたわけだが。
名前は一頻り笑い、ひいひい言いながら目尻を擦ると、面白おかしさを残した、それでいてどこかすっきりした声で言った。
「いかにも『契約』の国『璃月』の者です、って顔しときながら、対価を持っていないなんて。
私はちょっと誤解してたのかもしれませんね、いや、誤解じゃないのかな?
ともかく、ここでの『契約』は随分軽いみたいだ」
「………………」
鍾離は唇を苛立ちに吊り下げた。いくら鍾離にとって好ましい人間だとしても、「契約」を馬鹿にするのは、岩王帝王の逆鱗に触れる行為だ。鍾離の過ちは事実であり、言い返すにも根拠に乏しいのが、自分への怒りともなった。
眉を顰めながら、肩で息をする名前の横を通り抜ける。モラが無いのでは仕方が無いからと往生堂へ請求してくれるよう店主に告げ、名前へ爪先を向け直した。
「……確かに、ことモラの支払いに関しては、俺は『契約』の履行を怠ってしまうが。
璃月も、俺も、それだけではない。『契約』の重さを理解しながら生きている。
長く滞在すれば、解るはずだ」
弁解じみた言葉は、怒りを隠すでもなく、どこか拗ねた声になっていて、鍾離自身も驚く。
名前もその声色が愉快だったようで、ひい、と笑いをぶり返させながら、
「せっかくだから、そうさせてもらいますね」
──数秒前の苛立ちから一転、喜びに包まれてしまった理由を、今の鍾離は理解できなかった。