23

 私は未だ、両手を繋いだままで光忠と対峙し続けている。

「……で、それが怖くなったきっかけ?」
「うん……」

 持ち直した様子の彼に問いかけられて、肯定した。
 すると、小首を傾げられる。
 
「僕としては、随分可愛らしい夢を見たんだなー、って思うんだけど、どうだろう?」
「……光忠は、そう思ってくれるの?」
「ああ、そうだよ」

 好意的に取って貰えるのは予想外だった。だけど私がこうは思わないの、と提示してみれば、ああ確かにそれもある、と思い直してしまうかもしれない。
 そんなリスクがあるのに、光忠は私のことを好きでいてくれているから大丈夫なんじゃないか、という甘い妄想が浮かんでは消えない。それに私は負けてしまった。

「いやらしい女だって思わない?」

 転がり落ちた言葉に、光忠は目を瞬かせる。

「全然。僕だって名前とキスしたいなーって思うし」
「光忠は、良いんだよ」
「どうして?」
「……分からないけど、でも、光忠は良いんだよ」

 そう言うと、光忠はまた思案するような顔になった。私と両手を繋いだままでなかったら、片手を顎に当てていたかもしれない。
 それを見ながら、分からないとは言ったけどちょっとだけよぎった言葉があったな、と思い至る。光忠は私が怖いと思っているのを解明する手伝いをしてくれているようだったから、ヒントになるのならと口に出した。

「……光忠は、ほら、大人の男のひとだし……、そういう欲があっても良いんだって思って……」
「うん? …………ん、なるほど」

 ヒントどころじゃなかったらしい。
 光忠はくすりと笑って、合点がいったと言わんばかりに頷いた。
 光忠はすごい。多分、私より私のことを分かっている。
 どうしてこんなに怖いのか、光忠はどういう結論を出してくれたんだろうか。教えてくれるのかな、と彼の言葉を待った。
 私の手を、光忠がぎゅうっと握る。

「いやらしくたって良いじゃないか。可愛いよ」
「そんな、かわいくなんか」
「ううん、可愛いよ。名前ちゃんはいつだって僕の可愛い女の子だ」

 その言葉が、ふっ、と胸元に収まった。
 真綿に包まれるような感覚に、自然と目が瞬く。心の表面にこびりついた泥を洗い流されて、ささくれ立った表層を全部こそぎ落とされたようだ。あれ、なんだろう、これ。
 光忠は笑みの中の満足そうな色を濃くした。私の手を捕らえていた彼の指が、さらに深く絡まる。

「もう一度言うよ。
 名前ちゃんは、僕の、可愛い、女の子。ね?」
「……きもちわるい女だって思わない?」
「全然」
「そっか……」

 ひとつひとつ区切って聞かせてくれた。その小さく洗練された言葉たちが、どれも私のモヤモヤを霧散させていく。
 彼の指が、私の手を甘やかすようにくすぐった。

「名前ちゃんは僕の可愛い女の子だけどね、恋人だから。いやらしくたっていいんだよ。君は僕のことが好きだから、そう思ったって仕方ないんだ」
「……仕方、ない」
「そう」

 べっこう飴みたいな隻眼がにんまりゆがんで、私を見上げていた。悪戯っぽく見えるくせ、そこにあるのはいやらしい私を受け止めてくれるという断言なんだから、……このひとは、ほんとうに、私に甘い。少しでも面倒くさそうにしてくれれば良いのに、ただでさえなんでも真面目にやる光忠は、私を甘やかすとき殊更楽しそうにする。
 私って相当面倒くさい奴だろうに。嬉々としてやる光忠はきっと変わり者なんだろう。
 それを拒絶できず、この関係を求めてしまう私は確実に大馬鹿者で、クソガキだ。
 名前ちゃん、と呼び掛けられる。
 子供を甘やかす声だった。

「怖くなくなった?」
「うん、なんか楽になった。ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」

 言い終えると、光忠は立ち上がる。手は相変わらず繋がれたままで、なんだかおかしくなった。迷子になった子供を捕まえておこうとしてるみたいだ。私に目線を合わせてくれていた光忠が、いつもの私より高い位置に戻ったから余計にそう思う。光忠、本当に背が高いなあ。格好良い。
 ぼーっと見上げていると、光忠の顔が近付いた。少しだけ屈んだらしい。突然やられると心臓に悪くて、普段より多く空気を吸ってしまう。
 光忠はさらに、

「夢の中での僕とのキス、どんなのだった?」

 などとのたまった。
 私にそんな恥ずかしいことを言わせる気か! でも無理だ、具体的には覚えてない、答えられない……!
 すっかりあのぬるぬるべちゃべちゃの生き物を光忠に蹴り飛ばされていた私は、今度はただ恥ずかしいばっかりになる。心臓も暴れ出していた。赤くなった頬を隠すための手は塞がれているから、へにょへにょの言葉を吐き出す口元さえも隠せない。

「あ、あんまり、おぼえて、ない、です」
「そうなんだ」

 光忠は期待はずれであろう私の答えに残念がることも驚くこともなく相槌を打った。
 それだけなら良かったのに。

「じゃあ、今からどんなのか確かめてみようか」
「……え、う、え?」

 目がマジだ。
 真っ先に出た感想がそれになるほど、光忠の眼差しは真っ直ぐだった。
 確かめるって、私の予想が間違ってなければ方法は一択だ。光忠がさらに身を屈める。私の足は凍りついたように動かなかった。
 光忠がすぐ近く。近すぎてよく見えない。小さく笑った彼の吐息が唇にかかった。ぞわ、と背筋が粟立つ。
 心臓がうるさい。光忠が何かを言った。聞こえない。心臓の音にかき消される。頭の中に入ってこない。
 ピントが合わない彼の顔、それでも見ていられなくなって目を閉じる。またふわっと呼気が肌を擽った。頬が茹だる。喉の奥で空気がつっかえていた。真っ暗な視界で見えないものに押しつぶされる。それは張り詰めた緊張感だ。
 絡まった手がゆらりと揺れる。目の周りの筋肉が強張った。

「──っ、ん」

 ふに、り、唇が沈んだ。
 思ったほど柔い感触ではない。
 光忠の身動ぎでわずかに擦れる。
 くすぐったい。
 熱い。
 どれだけの間重なっていたのか定かじゃない。
 ちゅっ、と軽い音。ひとの体温がゆっくりと離れていく。
 震える瞼を持ち上げる。
 少し離れたところに光忠の顔。普段より下がった眉、ゆらめく灯火のような瞳、朱を含んだ頬。
 そして、緩むままに吊り上げられた唇。
 今しがた触れ合っていた場所。
 それが開かれ、問いかけられる。

「……ね、どんなだった?」

 ……今度こそ、夢なんかじゃなかった。
 光忠とキスをした。
 あんなに駄目だ駄目だと思っていたのに、光忠はそれで良いって言ってくれて、正夢にしてくれて。
 体の奥底にある瓶の中へ、どすっ、どすんと重くあたたかいものが溜まる。それが瓶いっぱいになった途端、ひゅう、と喉が鳴った。
 涙が落ちる。飛びつくみたいに彼へ飛び込んだ。

「光忠、光忠、私、な、んか、も、うれしくて、頭いっぱい……」
「……っふふ、僕も。幸せでいっぱい。大好きだよ」

 あまったるい声音。喉の奥がぎゅうっとなる。
 いとおしい。私はこのひとがいとおしい。息が苦しくて仕方ない。胸が張り裂けそうになるとはこのことかと思う。
 光忠、ともう一度名前を呼ぶと、泣いて縋るような声が出た。
 光忠は許してくれるだろう、なんて甘えて力任せに抱き付く。頭を胸板にぐりぐり押し付けた。ファスナーが頬に当たっても、離れたいなんて思えない。汗のにおいだってするけれど、それだって不快なものとは感じなかった。むしろただでさえ煩い心臓に動力を注ぐぐらい。
 朝陽はさっきよりも高くに昇っていて、囀る鳥たちの声も増えていた。心地良い陽射しや彼らの声と私の体の中の煩さは相変わらずちぐはぐだけど、光忠の温度に包まれているこころはまったり馴染む。
 髪を撫でられて、目を閉じる。ぽかぽかあたたかくて、ともすれば眠ってしまいそうにもなった。どきどきするのに安心するなんて、矛盾している。でも、苦痛じゃない矛盾だ。
 子供をあやすみたいな手つきに和みながら、光忠が私にくれた言葉を胸の内で復唱する。
 光忠は昨日私が寝る前までと変わらず、ずうっと私の側に居てくれた。

ブドウジュースとワイン

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