15
障子の向こう、映った影に心臓がどくりと跳ねる。入室の許可を求められる前に、入っていいよ、と言った。
すす、と障子が品良く開かれる。現れた燭台切は、いつものごとく口元に穏やかな笑みを浮かべていた。
目が合って、息が止まる。鼓動がうるさい。逃げそうになる。逃げたらいけない。今を逃したら私はきっと、また無かったことにしてしまう。
燭台切は私の前に来ると、私と同じように正座をする。背筋をぴんと伸ばした姿は凛々しくて、ああ、この人って、こんなに格好良かったんだ。
今までの私は、よく嘘をついてこれたと思う。こんなに、こんなに彼が好きなのに、どうやったらここまで見ないふりを出来たんだろう。
いつもの服から、ジャケットとベストを脱いだ格好をしているな、と彼の服装に目を遣っていたことに気がついて、唖然とする。彼の服装なんて、今まで気にしたこと、なかったのに。服装が洒落ているとか、体の部位のどこが魅力的かとかだって、考えたことも感じたこともなかったのに。
今は、違う。
拘って整えられた髪も、その青みを帯びた黒色も、しっかりとした首筋も、ぱきっとしたシャツも、そこから覗く鎖骨も、胸ポケットに端を入れられたネクタイも、──もう、駄目、駄目だ。これ以上はおかしくなる。視覚から、酔いそうになる。
自分は彼を好きなのだと気付いてしまった。自分の目に見える、彼の全てを愛おしく思っていたのだと気付いてしまった。恋焦がれる相手はこんなにもうつくしく見えるのだと知ってしまった。
知らなかった私は、見え方の変わった世界に頭と心を着いていかせるのが精一杯で。
胸が愛おしさでいっぱいに満たされる、それが息苦しくて、だけどなぜだか心を震わせて、涙が出る。
じわ、と滲んだ視界に、此方へ伸びてくる手が映った。大丈夫という声は出せず、ただ手で制する。
彼のうつくしさに涙できるぐらいには、この感情は綺麗なものなのだろうか。恋とか愛とかそういう感情は誰が持っても無垢なもので、だから私なんかの恋情でも、彼をうつくしいと感じるだけの純粋さはあるのだろうか。出来たらそうであってほしい、こんな私でも、この感情ぐらいはせめてうつくしくあってほしい。そうしたらきっと、少しは胸を張って彼に好きだと伝えられる。
羽織の袖で涙を拭って、一度深呼吸をする。わざわざ燭台切に来てもらったのに、待たせてばっかりだから。早く、伝えないと。ずっと遠回りしてきた、私の答えを。
「──……」
伝えたい言葉は、とても短い音。それなのに、喉の奥で引っかかって声にならない。親愛の意味での「好き」なら簡単に言えたのに。……燭台切は、笑いながらするりと言葉に出来ていたのに。私も、あんな風に、言えたらいい。
逸らしていた視線を上げる。あたたかな金色が、心の奥を締め付けた。本当なら逸らしてしまいたい。でも、そんなことをしたら、私は絶対に後悔する。終わったことを後悔するのは嫌いだ、今まで避けてきたことだ。
息を吸う。喉を震わせる。
「すきだよ、みつただ」
やっと言えた言葉は、いくらかつっかえた。頬の熱が熱さを増す。頭がぐちゃぐちゃで、光忠のことしか見えなくて、──そしてその彼は、辛そうに眉を寄せた。
それが見えた瞬間、体に衝撃を受ける。まずいことを言ったかな、もしかして好きだなんてただの自惚れだったのかな、そんなことが浮かんで目の前が真っ白になっていたのに、抱き締められているのだと気付けば恐怖がすぅっと引いた。
初めてだ。今まで無かった、抱き締められることは。壁に追いやられたり、腰に腕を回されはしたけれど、こんな風にぴったりとくっつくのは、初めてだ。
体を押し付けさせる腕は力強い。布越しの耳へ、真っ直ぐ光忠の鼓動が聴こえてくる。速い。いつだって笑いながら、余裕そうに私に触れていた光忠が、心音を速くさせている。そんな、ことが、あるなんて。
私だって、確かに緊張している。だけど、伝わってくる体温、包み込むような抱き締め方、そういった優しさが僅かに落ち着きをくれていた。
「名前」
呼ばれる。すぐそばで聞こえる彼の声は、やっぱりそれでさえも格好良くて愛おしくて、息は苦しくなるばかりで、でも、幸せだ。もっと聞いていたい。聞かせてほしい。名前を呼んでほしい。耳を澄ます。彼の言葉を聞き逃さないように。
光忠が、何かを目一杯込めた息を吐き出した。その後、す、と小さく吸う音。きた。くる。
「もう一度、今みたいに呼んでくれ」
ちょっと、びっくり、した。まさか、そう言われるとは思っていなかったから。
だけど、光忠の声の密度が大きくて。切実、と言うほど切羽詰まった感じではないけれど、とにかく彼にとっては大切なことのような声色をしていた。
求められている?
私でも、彼のことを少しぐらいは幸せに出来るかもしれない。
頭の中によぎった言葉はそれで、歓喜に胸がざわざわして、緊張で固まった声帯から捻り出した音は上擦っていた。
「光忠」
「もう一回」
「光忠」
ぎゅうう、と、私を抱き締める腕の力が強くなる。痛みを感じ始めるくらいだ。
でも、今の私には喜ぶ要因にしかならない。どうしよう、必要以上に自惚れてしまうかも。私のこと、気遣う暇もないくらい、好きでいてくれたりするのかな。そう、なのかな。
──じゃあ、抱き締め返したりしても、良いのかな。
こんなにくっつくことが無かったからしても良いのか分からないけど、少しだけなら大丈夫かな。そっと腕を回してみる。光忠が身じろぎして、頭に、光忠の、頬? 見えないけれど多分そうだ、が軽く擦り付けられた。くすぐったい。
大きな溜息が聞こえた。
「……その呼び方はちょっと、ずるいよ」
ず、ずるいってなんだ。これは反論すべきところではなかろうか。
咄嗟に上を向く。光忠の眉はまだ眉間に寄せられていて、でもこちらを見つめる目に乗せられているのは剣呑な光ではない。苦しげには見える、かも。
「み、光忠だって私のこと、す、……って、言った時に、名前」
「あの時は君、好きだって言われたのに気がいきすぎて、そっちの方を考える余裕は無かっただろう。
だけど僕は半端に準備していたから、それは不測の事態がすぎて、あまりに嬉しくて、はあ……」
そう、光忠がぼやく。
……ぼやく? あの光忠が?
格好良くしようとしていて、実際に格好良くて、格好悪いことはおどけたみたいに言って、皆の笑いに昇華させたりなんかしちゃう、あの光忠が?
こんな風に明からさまに、光忠自身が格好悪いと評価しそうな動作を?
……お茶目さを装う余裕もないぐらい、さっきのが衝撃だった?
そういえば溜息も、本物みたいだった、ような。
「……え、でも、嬉しい、の?
私、光忠に言われたときのこと思い出して、私もって、勢いで言ったんだけど。
ほら、元は刀工さんの名前じゃん」
「ああ、それはそうだけどね。
でも。……これからもし、他の光忠の刀が来ても、君が光忠と呼ぶのは僕だけになる。
僕は、君だけの特別な、たった一口の『光忠』になれるんだろう?」
親しい刀剣同士はこっちの名前を呼ぶことが多いけど、君に呼ばれるのが一番嬉しいな、恋人としても、刀としてもさ、と笑う。
そう言われると、途端に恥ずかしくなる、というか。
今、とても、心臓に悪い言葉が聞こえた。
「こいびと」
「おや、まさか逃げようだなんて思っていないよね」
まあ、逃げても良いよ。今度は君から来てくれるのを待たずに、僕の方から捕まえてあげる。
金の瞳が細められる。どきり、とした。とろけた色は意地悪く、逃がさないと雄弁に語っている。もしかしてこういうのを色気って言うのかな、……刺激が強すぎる! なのに、目を逸らせない、逸らさない、逃げたくない。退路は絶たれている、彼の手によって、私自身の手によって。もう既に、この気持ちに捕まえられている。
「に、逃げない、よ」
どうにか喉から絞り出せば、光忠が満足そうに頷いた。私は、今の言葉で気力を使い果たしたというか、羞恥ゲージが最大値のラインを突き破って、天元突破しているというか。心臓も痛いぐらいで、限界で、とうとう俯いた。
そこを、また抱き締められる。ど、どれだけくっつくつもりなんですか! うれしい、けど、すごく嬉しいけど、私の羞恥ゲージが宇宙まで達するのでは。この本丸空間に宇宙まであるのかどうかは置いておくとして!
本当は分かってる。たとえこんな風に抱き締められなくても、笑いかけてもらえるだけで、瞳に映してもらえるだけで、此処に居てもらえるだけで、もう前のようにはいられないんだって。嬉しくて、幸せで、どうしようもないくらいときめいてしまうんだって。だから、今ここで腕を解いて貰ったって無駄でしかない。
それでいい。戻れなくていい。その代わりにこれから先、光忠と私、好きだって言い合えるんだって。それも、分かっているから。