11
冷たい水が、頬を濡らした。
洗いたての髪は、夜の空気にすっかり温度を奪われている。大浴場から自室に戻るまでの道程はそう長くはないとはいえ、ゆっくりと歩いてしまっている以上当然の結果だった。
浴衣なんて薄いものを着ているから、体だって冷えてきている。何も覆うもののない足は尚更で、俯けば随分と進みの遅いそれが見えた。
私は、部屋に戻るのが、怖い。
あと数歩で着いてしまうのが嫌で、発端たる件の櫛をぎゅっと握る。胸のあたりがずしりと重くて、足取りを遅らせている。時間が止まって欲しい。
嫌なことがあった時は、入浴だとか何かを洗うという行為で気が紛れるのだといつか聞いたことがある。それにしては、ちっとも楽になってはいやしない。嫌なことという程ではないけれど、気落ちしているのは確かなのに。
もし燭台切が他に行ってしまったらと思うだけで、寂しくて、不安なのに。
誤用の方のシュレディンガーの猫だ。
部屋に着いてしまわなければ、燭台切が来てくれるか来てくれないかは分からない。だから部屋に入りたくない。今、目の前にある戸を、猫の入った箱を、開きたくない。
「早く入らないと、湯冷めしてしまうよ」
「え!?」
思わぬ声。耳に馴染んだそれは、確かに私の部屋の中から聞こえてきた。
半ば確信を持って、戸を開く。
望んでいた姿があった。
私の分の座布団まで用意して、自分のものの上で胡座をかいている。
手袋を外した手にはドライヤー。燭台切は首を傾げて、どうして驚いていたんだい、と問いかけてきた。自分はここに居て当然と言わんばかりの言葉に、ふっと胸が軽くなる。
「……いや、なんでもない」
下手くそに誤魔化せば、そう? と不思議そうに燭台切は言った。追求もされないので、素直に部屋へ入って彼の前に座る。変わらない、いつも通りだ。
「ひっ!?」
「やっぱり冷えてるじゃないか」
振り向く。首の後ろを抑えた。手を伸ばした形のまま、燭台切は此方を見ている。少しだけ眉を顰めた、咎めるような目だった。
湯冷めしてしまうとさっき言った通り、私の体が冷えていることを注意したかったらしいとは分かってはいれど、なんとなく納得がいかない。
なんだって、よりにもよって首を撫でたのだろうか。体温を確認するだけなら、腕でも良かったじゃないか。心配して貰っている私が注文をつけるのもどうかと思うけれど。
燭台切が持ってきた膝掛けを広げながら座り直す。
「その櫛、使っても良いかな」
「えっ、う、うん。はい」
まさか話が其方に向くとは思わなかったから、変な声が出た。半身を捻って後ろに手渡す。
カチッとスイッチの入る音の後に風音が聞こえ始めた。櫛の先が僅かに頭皮に当たり、風と靡く髪が頬をくすぐる。大きい音があまり好きではないのならと、最新技術でどうのこうのしているらしい低騒音ドライヤーを購入することを提案してくれたのも燭台切だったか。音の大きさの代わりに風の勢いを犠牲にしている分乾かすのに時間はかかるものの、さしたる問題ではない。燭台切を長い間拘束してしまうのが申し訳ないぐらいか。
でも、今の私には好都合かもしれないと、そう思ってしまう私を許してほしい。
いや、許されなくとも構わないけれど、とまで考えて、燭台切の「あのさ」に引き戻された。
「この櫛を買ったのは、どうして?」
「……えっと、何かを頑張ろうと思ったから。まずは、身嗜みを気を付けたらどうかなって」
「ふうん」
燭台切の答えはそれだけ。違和感が残る。
相手は格好良さに気を配り、私の世話を焼く燭台切なのだ。君もやっと気を回すようになったんだねとか、僕の仕事が減ったよとか、そう言ったりはしないのだろうか。言わないだけで思っているのかもしれない。
だとすれば、燭台切にはぬか喜びさせてしまうことになる。
実際は一度も使っていなかったのだから。
誤解を解かなければならない、本当は、と真実を伝えた。燭台切の手がぴたりと止まる。
「そうだったんだ」
気の所為か。その声は弾んでいるように思えた。
気の所為だ。私がだらしないことに、燭台切が喜ぶ理由は皆無だから。
私の背中に目が付いていたのなら、燭台切がどんな顔をして言ったのか分かるものを。
その時肩が大きく跳ねた。髪を乾かすのを再開した燭台切の指が耳の裏をなぞったのだと理解して、事故か、事故だな、と心中でぼやく。変に過剰反応してしまったのが恥ずかしい。
「もしかして、くすぐったかった?」
「う、まあ、構わないよ」
居た堪れないから、わざわざ問いかけてこずともいいのに。
後頭部に当たる温風とは別の熱さを頬に感じる。燭台切には見えないけれど、苦笑いの誤魔化しで気を紛らわせた。
そこで油断大敵と言わんばかりのことが起こって、ひ、と声が漏れる。今度は首か。
「またやってしまったかな。でも構わないんだろう?」
「う……」
言ってしまった以上引き下がれない。その後も何度か耳と首を指が掠めて、その度に大袈裟な反応を返してしまった。ここまでくると、本当に事故なのか疑ってしまう。私の反応が面白かったから何度もしてしまったとか、そういう事である気がしてきた。
今後ろを振り返ったなら笑っている燭台切が見えるのかもしれない。胸の奥がもぞもぞしていた。もしも燭台切が楽しんでいるのならそれで構わないのだけれど。誰かを楽しませられるのは良いことだ。
そう思ったあたりで、温風が冷風に切り替わる。温まった体が急速に冷えていき、カチッという音でそれが止まった。
「ねえ主、コンセントを抜いてくれるかい?」
うん、と頷いて壁まで向かう。プラグを引っこ抜いたところで、もう片方の手に燭台切の手が触れた。私に頼んだのに着いて来たのか。振り返ってすぐそこのところに膝をついた燭台切を見上げる。
途端に息が詰まった。──彼の金色は、こんなに熱を帯びるものだっただろうか。
私の手からプラグがぽとりと落ちる。
燭台切の手が持ち上がるのが見え、それは私の頬に行き着いた。彼の背後には放り出されたドライヤー、視界の開けている方の私の横には触れられたままの手。その他の方向は見られない、異様に近くに居る燭台切を視界に入れられない。
心臓がばくばく言う、プレッシャーを感じているのか、そりゃそうだ、こんなの圧迫だ。
背後が壁でも逃げ場は十分ある、けれどないに等しい。燭台切の手を振り払って逃げ出す度胸なんて私にはない。
だから燭台切、何をする気だ、早くなんとか言って済ませて終わらせてくれ。
「さっき髪を乾かしている最中のさ、普通わざとだって気付くと思うんだ。
セクハラだー、って言って良い状況だったんだよ。もっと危機感を持とうね」
「ほ、本当にわざとだったんだ」
諭す言葉は想定外で、反応がワンテンポ遅れた。けれど声色がいつもの叱り方と違うような気はする。もっと、内に他の感情を燻らせている感じだった。
その正体は不明のまま、燭台切は言葉を続ける。
浮かべた笑みは見た事もないほどにあやしく、
「僕に触れられるのは、嬉しかった?」
「────、は」
硬直。
理解を拒否した。
それではいけない。無理矢理頭を回して噛み砕く。──嬉しかったって、嬉しかった? そりゃあ嬉しくて当然だろう。どうやら自分は、燭台切と一緒に居たかったらしかったのだから。そして、燭台切はそれを察していて言葉にしただけだという話だ。
なにひとつ可笑しいことはない。衝撃を受ける必要はない。
なのに、どうしてこうも、私は。──まさか、自分自身が頭で把握していないだけで、私はまだ別の何かを感じていた? その何かが私にとって不都合なことで、今の言葉がその不都合を指摘するものだから、こんなにも混乱している?
支離滅裂、まとまらない、ぐちゃぐちゃになる、分からない。私は今どうなっている? 把握不可能、理解不可能。
きゅっと締まった喉から絞り出す。
「──こわい」
燭台切に、震える手を握られた。「うん、やっぱり待っていて良かった」
耳に入った呟きの意味を考える余裕もない。ばくばくと嫌な音を立てる心臓が痛くて、理解できないものは恐ろしくて、どうしたらいいのかも分からなくて、泣きそうだ。
ゆっくりと髪を撫でられた途端、心臓がもっと痛くなる。いつもはこうされると落ち着くのに。そう、燭台切はいつも優しかった。こんな怖い想いをさせることはなかった。
私はそれが、本心を見せてくれないように思えて、どこか寂しかったりなんだりして。でもやっぱり優しくしてもらえるのは嬉しくて、だから私は、燭台切のことを。
「僕だって男だよ」
その声がしたのはすぐ近く。額に柔らかなものが触れている。
それに気付くとがしゃんと割れた。
自分の中で何かが割れた。
その音を、私は確かに聞いた。
額から、彼の唇が、離れていく。映る世界を把握できない。視覚情報が頭へ入ってこない。
辛うじて認識出来たのは、燭台切が首を傾ける動作だけ。「ね?」
そして紡がれたのは極端に短い一言、言い聞かせるような声色。喉が詰まって呼吸が出来ない。燭台切が立ち上がる、その大きな動きはなんとか頭に入ってきてくれた。
追って見上げることはない。そんな余裕はない。僕もお風呂に行かなくちゃ、声が上から降ってくる。
「難しいかも知れないけれど、出来るだけ夜更かしはしないようにね。おやすみ」
障子がすうっと開かれ、ぱたんと閉まる音がした。ややあって燭台切が出て行ったらしいと気付く。
瞬間、いくらか空気を吸いやすくなった。
肩から力が抜ける。
壁にもたれかかったまま、横に倒れた。畳にぶつけた体が痛む。それも覚醒にはちょうど良かった。
両手で顔を覆う。大きく息を吸った。
「いまの、しょうじょまんが?」
さっきの、あれはなんだ、壁ドンもどきか。