08
「…………」
「とー、……ます……?」
トーマスが、顔に傷を作って、帰ってきた。
右目の周りに、大きなガーゼとテープ。きっとミハエルあたりにやってもらったのだろう。なんで私、いつもトーマスの部屋にばかり居るのだろう。玄関で彼のことを待っていれば、きっとすぐに手当てを──、いや、私がそんなに出しゃばったって、何も変わりはしない。手当てだって、ミハエルの方が上手い。悔しさと虚しさを飲み下す。
ふらつく足で駆け寄る。トーマスが、私の方を見た。
長い前髪の隙間から、まっくろな左目が見えた。ちがう、色はいつもみたいな、赤紫だ。だけど、それはあまりに暗くよどんでいて、そして、私を見た瞬間にぐらっと揺れた。
一体、何があったのだろう。外から帰って来たはずなのに、あの白い外出着も着ていない。インナーだけを残して脱ぎ捨てている。履いているのは、……これは、確か、デュエルの関係で外泊するとき持って行っている私服だ。そうだ、トーマスは外にデュエルをしに行っていたんだ、トロン様の命令で。
混乱しながら、頭の隅だけは冷静で、視覚情報を取り込んでくれる。頭は働かないけれど、パニックで何もできないよりはずっといい。何かをできる自分に安心できる。
ふと妙なにおいが鼻を掠める。これは、──焦げくさい? トーマスが?
「火災」という文字が頭に浮かぶ。でも、そんなニュースなんてあったっけ。いや、あったとしても、トロン様の力で情報を遮断されているのかもしれない。彼なら、計画の邪魔になるような要らない情報は念入りに潰すはずだ。
とにかく、何があったにせよ、トーマスが心配だ。
トーマスは部屋に入ってきたっきり、私の前でずっと動かないでいる。
何かを言うべきか。不用意な言葉は高確率でマイナスに働く。精神に傷を残しているまさに当事者の私は、体感として知っている。
じゃあ、どうする。
──私は迷って、悩んだ末、トーマスの右手を握った。ぴくりという反応と、ざらりとした感触。見れば手にも包帯が巻かれていた。気付かなかった。これだから私はだめなんだ。患部に触れたかもしれない。失態に喉を引き攣らせながら手を引こうとすると、逆に握り返された。
「とー、ます」
「……名前、……」
「とーます、とー、……うん。いるよ、私、トーマスがここに居てほしいなら居る。
そうじゃないなら言って、私、」
手骨が軋んだ。
「ん、うん。わかった。行かないよ、どこにも行かない」
言うと、トーマスは少なからず安心したようだった。折れそうなくらいに握られていた手から、痛みが引いていく。
……どこからどう見ても、重傷だ。
服の下も、きっと怪我をしている。それは当然のこととして、何が重傷かといえば、その精神に他ならない。
思い出す。こんなトーマスの姿には見覚えがある。
ミハエルとクリスは違うみたいだけれど、トーマスはトロン様にあまり忠実ではない。だから、時折ひどく言い争っていた。
……そして、あるとき、とてもとてもひどいことを、言われたらしかった。
トーマスは激情の行き場を求めて、手あたり次第にそこら中のものを壊して、そのあと、それまでが嘘だったみたいに黙りこくった。
これも喩えの方の当事者だった経験があるがゆえの考えだけれど、物にあたるのは、自傷と似ているなのではないだろうか。感情をコントロールするための破壊衝動が外に向かったか内に向かったか、そこが違うだけで。
今のトーマスは、感情の発散が終わって、冷静さが戻ってきている頃合いなのだろう。ぐるぐるとものごとを考えて、だけど何かの拍子にまた感情が爆発してしまいそうで、不安定になっている状態。
私は、その爆発を誘発してしまわないようにしないといけない。とりあえず、傍に居るのは決定事項だ。トーマスがそうしてほしいと言うのだから、そうした方が良い。
あとは、慎重に、でも気遣いすぎないくらいに、彼が落ち着くまで待つこと。難しい。少し間違えば逆効果にもなる。私なんかが、正解の行動をできるとは思えない。
……恐い。人間と接するのは、これが恐い。自分の行動が、相手にとっては何になるのかわからないのが、恐い。
でも。
その傍にずっと居ることぐらいなら、私にもできる、はずだ。
トーマスが感情を発散しきれていないなら、この身体をサンドバッグにされたって構わない。
トーマスがもっと近くに居たいなら、私は喜んで、彼の背に腕を回そう。
……こういう、風に。
「……名前」
「うん」
「名前、…………ああっ、クソッ、……っ、トロンッ!!」
力強く抱き寄せられたまま、私も抱き締め返す。いつの間にか私よりいくらか背が伸びていた彼に上から重心をずらされ、少しふらつく。それを耐えきる。
抱き返す強さも気を付ける。怪我に障らないようにしたいけれど、どこを怪我しているのかわからないし、控え目すぎても精神衛生に問題が出そうだから、少し強めに。
トーマスに貰って、ちゃんと首から下げているカードのケースが身体に押し付けられて、痛い。
でも、構わない。私なんかにできるほんのすこしなんだから、ちゃんと完遂したい。
密着すると、あの焦げたにおいが強くなる。やっぱり、トーマスは炎の中に居たのだろう。
そして、彼の叫んだ「トロン」。
──トロン様は、トーマスに、何をさせた。ただ怪我をしただけなら、トーマスだってこんなにはならない。きっと、他にも何かした──させられた。トーマスはトロン様に従いきっているわけではない。やりたくないことはやりたくないと文句を言うだろうし、結局実行することになったとしても、感情が伴わないからパフォーマンスは下がるはずだ。トーマスは直情型だから。
彼の強い腕を感じながら、考える。
結局、トーマスがなんとか持ち直したすぐあと、私は彼の口から真実を教えられることとなった。
「……そん、な、ことが……」
「だが、やったのは俺だ。トロンの命令とはいえ、俺がやった。
だから、名前、トロンのことは」
憎まないでくれ。事の顛末を話しきったトーマスは項垂れて、そう言った。
隣同士でベッドに座っている今では、前髪の間からすら彼の表情を窺うことはできない。だけど、彼の膝の上で握られた両拳は、雄弁だ。
私はそれを自分の手で覆うようにする。ひどく冷たい。
……彼がこんな思いをすることになったのは、トロン様が彼を陥れたから。
彼が、故意ではなくても、1人の少女を重体に陥らせてしまったから。──私と同じくらいの年頃らしい、というのも、……もしかしたら。
──ああ。
トーマスは、なんて。
なんて、残酷で、不器用で、情の深い人なのだろう。
「憎まないでくれ」。
そう言われてしまっては、私は、その通りにするしかないのに。
私の中の苦しみも、トーマスの中の苦しみも、消えるはずのないそれを、いつまでも、耐え続けるしか。