サフランの丘
名字・名前は、この数日間ずっと苛立っていた。
理由は、今バビルス中を騒がせる、問題児クラスの無謀な試みに他ならない。
魔王デルキラは名前の「推し」でこそ無いけれど、王の教室が貴重な文化財であることは事実なのだ。その価値を理解しきっていない者らが、それを踏み荒らそうなど、唾棄すべきことであった。
昼下がりの博物塔は、いつにも増して悪魔の気配が無い。普段ならば魔王師団などがよく出入りするのだが、問題児クラスの話でもちきりになってからは、誰も寄って来なくなった。名前を知る悪魔は「絶対キレてる、今は近寄らない方が良い」と危機を回避し、名前を知らない悪魔は、準備室と繋がる管理人室からさえ感じ取れる殺気に尻尾を巻いて帰っていくのだ。
名前とて、自分の仕事に誇りはある。というより、この場所で仕事をするために、今まで生きてきたと言っても過言では無い。故に、もしいつも通り見学や資料請求をする悪魔が居たとしても、しっかり仕事はこなすつもりだった。なんなら、仕事をしていれば、過去の遺物に目を輝かせる悪魔たちを見られれば、この苛立ちも和らぐだろうとすら考えていた。
結局、先の通り、名前を恐れて誰も来ないのだが。
──オリアス先生の休みも、まだだし。
耳から下がった星に触れて、名前は息を吐く。座していた椅子の背にもたれると、ぎしりと音が鳴った。今は放課後だ。少しばかり、私事の方へ思いを馳せても良いだろう。そうでもしなければ、悪周期がいつもより早くに訪れてしまう。自分のものを見せびらかす機会も、自分のものと寄り添うこともできないだなんて、ストレスが溜まりに溜まる。所蔵品を眺めたり、文献を読み漁ったりしてはいるけれど、楽しさと疲労が釣り合わない。
準備室内に、魔術をかける。効果は“防音”。
すぅっと呼吸。
「は~~~~、クソニワカども~~~~!!」
最終的に、名前の怒りは、これに尽きた。
問題児クラスと交渉を成立させてしまったカルエゴが、あの陰気な顔で博物塔を訪れたことを思い出す。曰く、「あいつらは考え無しです。王の教室が開くことには、まずもってならないでしょう。愚行に愚行を重ねた場合、名字先生の許可証を手に入れるということにすら気付かない可能性もある。……ですが、もし辿り着いたときには、厳粛なご判断を」
「な~~~~にが厳粛な判断をじゃボケ~~~~!!」
開けないに決まってるだろうが馬鹿野郎! 許可だって出してやるものか!
名前の叫びは、準備室の外に漏れることはない。怒り任せに身体を揺さぶれば、背もたれも悲鳴を上げる。しばらく暴れてから、今度は机に身体を突っ伏した。
「……あんたのせいで、『悪食の指輪』も見に行けないんでしょうが、陰険番犬……」
呟かれた声は、苛立ちと共に、もどかしさが滲んでいた。
はっきり言って、名前は、ナベリウス・カルエゴという男が苦手だ。明るすぎる相手も苦手だが、まったく愛想の無い相手も苦手。仕事にあれこれ口出ししてきそう──今のところ、されたことは無い──なところも苦手だ。博物塔は自分の縄張り、自分の城。それを突っつかれるなんてたまったものではない。たとえ正当な評価だったとしても、納得がいく指摘をされたとしても、内心では「クソがよ!!」になる。そういう自信があった。
というわけで、元々外出に制限のある名前は、カルエゴが担任を務める問題児クラスに近寄れない。苦手な相手との接触は、できるだけ控えた方がお互いのためだ。
けれど。
「『悪食の指輪』、見たいよ~~…………」
今回の計画を立ち上げたという、イルマという生徒。彼は飛行レースの際に、悪食の指輪という魔具を手に入れたそうだ。
悪食の指輪、それ自体は希少すぎるほどのものではない。今は居ないアミィ──彼はよく博物塔に来てくれた──も、似たような魔具を持っていた。
しかし、イルマの場合、入手方法がおかしい。位階袋鳥が出したなんて、そんな。理事長はたまにはそういうこともあるよと笑うだけだし(嘘つけ!)、位階袋鳥の調査はカルエゴに拒まれてしまった(あんの陰険教師!)。
こうなったら、イルマ本人に当たらなければならない。
なのに、それができない。
マジでクソ。
「……もういっそ、向こうから来てくれ……」
王の教室解放に関しては話を聞いてやる気も無いが、上手いこと言いくるめて悪食の指輪は見たい。どうにか博物塔に来てくれはしないものだろうか。
というより、王の教室を開けろという嘆願をするのなら、自分に話を通すのが筋だろう。奴らの担任は、もしかしたら来ないかもしれないと言っていたが、本当に来なかったら呪ってやりたいぐらいだ。もしも来るなら、少しだけ見直してやってもいい。
それでも、印は押さないつもりだが。
もう一度、大きく息を吐いた、そのとき。
ちりんちりん。博物塔への来客を示すベルが鳴った。